旧陸軍被服支廠――夜の廊下を歩く兵隊
広島市南区に、今も巨大な赤レンガの建物が残っている。
「旧陸軍被服支廠」。
かつてここでは、陸軍の軍服や軍用品などが製造・保管されていた。
そして1945年8月6日。
広島に原爆が投下された。
建物は爆心地から比較的近い場所にありながら、頑丈な構造によって倒壊を免れた。
しかし、その内部には多くの負傷者が運び込まれたという。
これは、その建物で起きたとされる、ある怪談だ。
ある夏の夜。
大学生の青年が、友人と広島の心霊スポットについて話していた。
友人がスマートフォンを見ながら言った。
「旧陸軍被服支廠って知ってる?」
「赤レンガの建物だろ?」
「そう。夜に近くを通ると、建物の中から人の声が聞こえるって噂があるらしい」
青年は笑った。
「さすがにそれは嘘だろ」
そう言いながらも、二人はその場所へ向かった。
時刻は午前0時を過ぎていた。
夜の被服支廠は、昼間とはまるで雰囲気が違っていた。
巨大な赤レンガの壁。
暗い窓。
そして、どこまでも続いているように見える長い建物。
二人が建物の前に立った、その時だった。
――コン。
どこかから音がした。
「今の聞いた?」
「……聞いた」
――コン。
今度は、はっきり聞こえた。
まるで建物の中から、誰かが壁を叩いているような音だった。
二人は黙った。
そして青年がスマートフォンのライトを建物へ向けた。
その瞬間。
暗い窓の一つに、人影が見えた。
軍服を着た男だった。
直立したまま、こちらを見ている。
「……誰?」
青年が声をかけた。
人影は動かなかった。
友人が震える声で言った。
「帰ろう」
二人が振り返った、その時――
背後から声がした。
「点呼を始める」
二人は凍りついた。
低い男の声だった。
そして建物の中から、次々と声が聞こえてきた。
「一番」
「二番」
「三番」
人数を数えている。
だが、その声はどんどん増えていった。
十人。
二十人。
三十人。
そして最後に――
「……八月六日」
誰かが、そう呟いた。
青年は振り返らなかった。
友人の腕をつかみ、その場から走り出した。
二人が道路まで逃げたところで、青年は一度だけ建物を振り返った。
窓はすべて暗かった。
しかし、一番奥の窓だけに、人影が立っていた。
軍服姿の男。
そして、その隣には――
何十人もの人影が並んでいた。
まるで今も、夜の点呼を待っているかのように。
翌日。
青年は昨夜のことを友人に確認した。
「昨日、最後に『八月六日』って聞こえたよな?」
友人は首を横に振った。
「……俺には聞こえなかった」
「じゃあ、何て聞こえた?」
友人はしばらく黙った。
そして、小さな声で答えた。
「最後の声……」
「『八月六日』じゃなかった」
「……『まだ終わっていない』って言ってた」
青年は、その日以来。
二度と旧陸軍被服支廠の近くには行かなかったという。
もちろん、この話は怪談として語られている創作である。
だが、今も残る巨大な赤レンガの建物を前にすると、
あの場所で過去に何が起きたのか――
想像せずにはいられない。
静かな夜。
もし建物の奥から、
「一番……二番……」
と誰かが人数を数える声が聞こえてきたら。
あなたなら、その場に立っていられるだろうか。
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