木村産婦人科――二階の窓

夜の十時を過ぎた頃だった。

住宅街の中に、ひっそりと古い建物が立っている。

かつて産婦人科として使われていたその建物は、今では長い間、人の気配がない。

地元では昔から、こんな噂があった。

「夜になると、二階の窓に女が立っている」

しかも、その女は外を見ているのではない。

道路を歩く人間を、じっと見下ろしているのだという。

ある夜、一人の男がその建物の前を通った。

何気なく二階を見上げる。

暗い窓が並んでいる。

そのうちの一つだけに、白っぽい人影があった。

「……人?」

男は足を止めた。

二階の窓の向こうに、長い髪の女が立っている。

顔は見えない。

ただ、こちらを向いていることだけは分かった。

男は怖くなり、急いでその場を離れた。

ところが――

数十メートル歩いたところで、妙なことに気づいた。

背後から、

「カツ……カツ……」

と、靴音が聞こえる。

振り返る。

誰もいない。

また歩く。

「カツ……カツ……」

今度は、さっきより近い。

男は走り出した。

そして自宅に戻り、玄関の鍵を閉めた。

その瞬間だった。

スマートフォンが鳴った。

知らない番号からの着信だった。

恐る恐る出る。

すると――

電話の向こうから、

赤ん坊の泣き声

が聞こえた。

「……もしもし?」

返事はない。

ただ、泣き声だけが続いている。

そのとき、男の背後から小さな声がした。

「……まだ、帰ってないよ」

男は凍りついた。

ゆっくり振り返る。

誰もいない。

しかし、カーテンの隙間から外を見ると――

遠くに、あの古い産婦人科の建物が見えた。

そして二階の窓。

そこに、さっきの女が立っていた。

だが今度は違った。

女は窓の外を見ていない。

男の家の方向を見ていた。

その瞬間、電話が切れた。

静寂が戻る。

男は震える手でスマートフォンを見る。

着信履歴には、知らない番号ではなく――

「自宅」

と表示されていた。

そして、もう一つ。

その下に、新しい着信履歴が残っていた。

「2階・病室」

そんな電話番号など、存在するはずがなかった。

翌朝。

男はもう一度、あの建物を見に行った。

二階の窓には、何もいない。

ただ、一つだけ。

古びた窓ガラスの内側に、指で書かれたような文字があった。

男が近づいて見ると、

そこには――

「次は、あなたの番」

と書かれていた。

そして、その文字の横には、

小さな赤ん坊の手形が、

いくつも並んでいた。

コメント