雑司ヶ谷霊園――振り返ってはいけない足音
東京の豊島区。
住宅街の中に、古い木々に囲まれた広大な墓地がある。
雑司ヶ谷霊園。
昼間は静かな散歩道にも見える場所だが、日が落ちると空気が変わる。
これは、ある男性が体験したという話をもとにした怪談である。
その男性が雑司ヶ谷霊園を訪れたのは、秋の終わりだった。
時刻は夜の十一時を少し過ぎていた。
「別に肝試しをするつもりじゃなかったんです」
そう彼は言った。
ただ、仕事帰りに近くを通ったので、以前から気になっていた霊園を少し歩いてみようと思っただけだった。
園内に入ると、街の音が急に遠くなった。
車の音も、人の話し声も聞こえない。
聞こえるのは、自分の靴音だけ。
コツ……コツ……。
古い木々の間を歩いていると、後ろから小さな音が聞こえた。
コツ。
「誰かいるのかな」
振り返った。
しかし、誰もいない。
街灯の下には、長く伸びた自分の影だけがあった。
気のせいだと思い、そのまま歩き続けた。
すると――
コツ……コツ……。
また聞こえた。
今度は、さっきより近い。
男性は立ち止まった。
すると、足音も止まった。
歩けば聞こえる。
止まれば止まる。
まるで、誰かが後ろから同じ歩幅でついてきているようだった。
「ちょっと怖くなりました」
それでも、男性は振り返らなかった。
そのまま霊園の奥へ進んでいく。
すると突然――
背後から、女の声がした。
「……待って」
男性の足が止まった。
声は、すぐ後ろだった。
振り返ろうとした瞬間、なぜか強烈な寒気がした。
そして、頭の中に妙な言葉が浮かんだ。
振り返ってはいけない。
理由は分からない。
それでも男性は、前だけを見て歩いた。
コツ……。
コツ……。
コツ……。
背後の足音は、どんどん近づいてくる。
そして耳元で――
「……ねえ」
女の声がした。
男性は走り出した。
墓石の間を抜け、出口だけを目指した。
後ろからは、複数の足音が追いかけてくる。
一人ではない。
二人。
三人。
いや、それ以上。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
まるで大勢の人間が、男性の後ろを歩いている。
それでも絶対に振り返らなかった。
ようやく出口が見えた。
男性は霊園の外へ飛び出した。
その瞬間――
足音が消えた。
静寂が戻った。
男性は荒い息を吐きながら、恐る恐る後ろを見た。
誰もいない。
ただ、暗い霊園の奥に一本の古い木が立っているだけだった。
「気のせいだったのか……」
そう思って帰宅した。
ところが、その夜。
自宅の玄関を開けた瞬間、男性は凍りついた。
玄関の床に――
泥で濡れた足跡が残っていた。
一つ。
二つ。
三つ。
玄関から廊下へ、そして寝室へ。
まるで誰かが歩いてきたように続いている。
男性は震えながら足跡を追った。
そして最後の一つを見た瞬間、声が出なくなった。
足跡は、ベッドの横で途切れていた。
その翌朝。
男性は足跡をすべて拭き取った。
そして二度と雑司ヶ谷霊園には行かなかった。
ただ――
それからしばらくして、奇妙なことに気づいた。
夜、一人で家にいるとき。
時々、廊下から音がするのだ。
コツ……。
コツ……。
ゆっくり近づいてくる足音。
そして寝室の前で止まる。
毎回、そこで終わる。
しかし一度だけ。
足音が止まったあと、ドアの向こうから女の声が聞こえたという。
「……今度は、振り返ってくれた?」
それ以来、男性は夜に一人でいるとき、絶対に後ろを見ない。
雑司ヶ谷霊園には、現在も多くの人々が眠っている。
そして古い木々に囲まれた静かな園内では、さまざまな怪談や心霊現象の噂が語られている。
もちろん、その真偽は分からない。
ただ、もし夜の霊園で――
自分の後ろから足音が聞こえてきたら。
そのときだけは、振り返らないほうがいいのかもしれない。
なぜなら。
振り返った瞬間、そこにいるものと目が合ってしまうかもしれないからだ。
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