めがね橋――トンネルの向こうから
群馬県安中市にある、碓氷第三橋梁。
通称「めがね橋」。
赤レンガで造られた巨大なアーチ橋は、昼間なら観光客も訪れる美しい場所だ。
しかし、夜になると、この場所には別の顔があるという。
昔から、橋の下に白い服を着た女性が立っている。
トンネルの中から、誰もいないはずなのに足音が聞こえる。
そんな噂が、ひっそりと語り継がれている。
ある秋の夜、一人の男がめがね橋を訪れた。
時計は午前零時を少し過ぎていた。
昼間とは違い、周囲には誰もいない。
男は橋の上から、暗闇の中に浮かぶ赤レンガのアーチを眺めた。
そのときだった。
――コツ……コツ……。
背後から、足音が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
気のせいだと思い、男は歩き始めた。
すると、また聞こえた。
――コツ……コツ……。
今度は、さっきより近い。
男は立ち止まった。
足音も止まった。
恐る恐る振り返る。
やはり誰もいない。
ところが、橋の先にあるトンネルを見ると、暗闇の奥に何かが立っていた。
人影だった。
白い服を着た女。
じっとこちらを見ている。
男が目を凝らした瞬間――
女の姿が消えた。
代わりに、トンネルの奥から声がした。
「……待って」
男は一瞬、逃げようとした。
しかし、なぜか足が動かなかった。
すると今度は、別の声が聞こえた。
低い男の声だった。
「戻れ……」
その瞬間、トンネルの奥から大量の足音が響き始めた。
一人ではない。
二人、三人……。
まるで大勢の人間が、暗闇の中からこちらへ歩いてくるようだった。
――コツ、コツ、コツ、コツ……。
男はようやく我に返り、走ってその場を離れた。
車まで戻ると、震える手でドアを開けた。
そして、何気なくバックミラーを見た。
そこには、めがね橋が映っていた。
橋の上に、誰かが立っている。
白い服の女だった。
しかし、次の瞬間。
男は気づいた。
女の隣に、もう一人いる。
古い作業服を着た男。
二人は並んで立ち、こちらを見ていた。
そして――
ゆっくりと手を振っていた。
男は急いで車を発進させた。
その後、二度とめがね橋には近づかなかったという。
ただ、不思議なことが一つだけあった。
翌朝、車を確認すると、後部座席の窓に、
小さな手形が一つだけ残っていた。
大人のものではない。
まるで、暗いトンネルの中から誰かが車に乗り込もうとしていたような――
小さな手形だった。
そして男は後になって知った。
自分があの夜、聞いた足音。
それは、橋の上から聞こえていたのではない。
車のすぐ後ろから聞こえていたのだ。
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