ひょうたん沼――「水面の向こう側」

その沼には、昔から妙な噂があった。

夜になると、誰もいないはずの水面から、人の声が聞こえる。

「……こっち」

「……こっちに来て」

ただし、その声に返事をしてはいけない。

そう言われていた。

ある夏の夜、肝試しに来た若者が、ひょうたん沼のほとりに車を停めた。

時刻は午前一時を過ぎていた。

昼間なら静かな沼も、夜になると別の場所に見えた。

風はほとんどない。

木々も動いていない。

なのに――

水面だけが、ゆっくりと揺れていた。

「誰かいるんじゃない?」

仲間の一人が冗談めかして言った。

懐中電灯を向ける。

もちろん、誰もいない。

そのときだった。

「……こっち」

小さな女の声がした。

全員が黙った。

「今、聞こえた?」

誰も答えない。

すると、もう一度。

「……こっち」

今度は、はっきり聞こえた。

声は沼の中央から聞こえている。

一人がスマートフォンを取り出し、動画を撮り始めた。

「せっかくだから撮ってみようぜ」

そう言ってカメラを沼へ向けた瞬間――

画面の中にだけ、人影が映った。

沼の向こう岸。

白い服を着た誰かが立っている。

「え?」

肉眼では見えない。

しかし、スマートフォンの画面には確かに映っている。

しかも、その人影は少しずつ近づいていた。

一歩。

また一歩。

「おい……これ、ヤバくない?」

誰かが呟いた。

その瞬間、画面が暗くなった。

そして、耳元で声がした。

「見つけた」

全員が一斉に振り返った。

誰もいない。

だが、足元を見ると――

泥で濡れた裸足の跡が、車のほうへ続いていた。

その場から逃げるように車へ戻った。

エンジンをかけ、ライトを点ける。

すると、フロントガラスに水滴が落ちてきた。

ポツ。

ポツ。

雨は降っていない。

それなのに、水滴はどんどん増えていく。

そして助手席に座っていた男が、突然黙り込んだ。

「……なあ」

「何?」

「後ろの窓、見て」

全員が振り返った。

後部座席の窓には――

無数の濡れた手形が付いていた。

内側から。

誰も後部座席には座っていない。

その瞬間、車の外から声がした。

「……こっち」

今度は、さっきより近い。

運転手はアクセルを踏み込んだ。

車が沼を離れていく。

誰も口を開かなかった。

しばらくして、助手席の男がスマートフォンを確認した。

さっき撮影した動画が残っていた。

震える手で再生する。

そこには、沼の中央に立つ白い人影。

そして最後の数秒。

画面いっぱいに、その顔が映っていた。

ぼんやりとした白い顔。

濡れた長い髪。

そして――

画面のこちら側を見ながら、口だけがゆっくり動いていた。

「……ひとり、足りない」

車内が凍りついた。

全員で人数を確認する。

一人。

二人。

三人。

……四人。

最初から四人で来た。

だが――

誰も気づいていなかった。

後部座席の足元に、

泥で濡れた靴が一足、

置かれていたことに。

しかも、その靴は――

誰のものでもなかった。

それ以来、彼らは二度とひょうたん沼へ近づかなかった。

ただ、一人だけ。

今でも時々、夜中になると聞こえるらしい。

水の中から、自分を呼ぶ声が。

「……こっち」

「……こっちに来て」

そして、その声は少しずつ――

自宅のすぐ近くまで、

近づいているという。

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