名古屋港――海から聞こえる声
これは、名古屋港の近くで働いていた男性から聞いた話だ。
その男性は仕事の都合で、夜遅くに港へ行くことが何度かあった。
ある冬の夜、仕事を終えた男性は、人気のない岸壁に車を止めて休憩していた。
時刻は午前1時を過ぎていた。
周囲には街灯がいくつかあるものの、海の方は暗く、波が岸壁に当たる音だけが聞こえていた。
男性が車の中でスマートフォンを見ていると、
「……すみません」
突然、外から声が聞こえた。
男性は顔を上げた。
誰かが近くにいるのかと思い、窓の外を確認した。
しかし、岸壁には誰もいない。
気のせいだと思い、再びスマートフォンに目を戻した。
すると今度は、
「……すみません」
さっきより近い。
男性は嫌な感じがして、車のドアをロックした。
そして、ゆっくり海の方を見る。
暗い水面の上に、何か白いものが浮かんでいた。
最初はゴミ袋だと思った。
ところが、その白いものは波に流されることなく、こちらへ少しずつ近づいてくる。
男性が目を凝らすと、それは人の顔のように見えた。
次の瞬間――
「助けて……」
はっきりと声が聞こえた。
男性は慌てて車を発進させた。
バックミラーを見ると、さっきまで何もなかった岸壁に、黒い人影が立っていた。
しかも、その人影は海を背にして、こちらをじっと見ている。
男性はそのまま港を離れた。
翌朝、怖くなって同僚にその話をすると、同僚はしばらく黙ったあと、
「夜の港では、海を見ないほうがいい」
そう言った。
理由を聞いても、詳しくは教えてくれなかったという。
それ以来、男性は夜の名古屋港へ行くとき、海の方を見ないようにしている。
ただ、一度だけ。
深夜に港の近くを車で通ったとき、助手席の窓の外から、
「……すみません」
あの夜と同じ声が聞こえた。
男性は振り返らなかった。
けれど、車を止めたあと確認すると、助手席側の窓には――
海水のような濡れた手形が、ひとつだけ残っていたという。
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