中河原海岸――海から呼ぶ声
夜の中河原海岸には、昼間とはまるで違う空気が漂っている。
その日、私は友人と二人で海岸を訪れていた。
時刻は午前一時を過ぎていた。
風はほとんどなく、波の音だけが一定の間隔で聞こえている。
「……誰かいる?」
友人が突然、海のほうを見ながら言った。
私は目を凝らした。
暗い海岸線の向こうに、確かに人影のようなものが立っている。
だが、暗闇の中では、それが人なのか岩なのか判断できない。
「気のせいじゃない?」
そう言って車へ戻ろうとした、その時だった。
――ザァ……。
波の音に混じって、誰かの声が聞こえた。
「……こっち……」
私は思わず振り返った。
友人も同時に振り返っていた。
「今、聞こえたよな?」
海のほうからだった。
もう一度、耳を澄ます。
すると今度は、はっきりと聞こえた。
「……おいで……」
声は女性のようだった。
しかし、海岸には私たち以外誰もいない。
「もう帰ろう」
私がそう言うと、友人は返事をしなかった。
「おい?」
もう一度声をかける。
すると友人は、海を見つめたまま小さな声で言った。
「……あの人、寒そうだな」
「え?」
「ほら、海の中にいる人」
私は海を見た。
だが、そこには誰もいない。
「誰もいないぞ」
そう言うと、友人は不思議そうな顔をした。
「……そう?」
その直後だった。
友人の様子がおかしくなった。
急に海へ向かって歩き始めたのだ。
「おい、どこ行くんだよ!」
私は慌てて腕をつかんだ。
すると友人は、まるで眠っているような表情で答えた。
「呼ばれてるんだよ」
「誰に?」
友人はゆっくり海を指差した。
「……あの人に」
私は背筋が凍った。
その時、友人の足元に波が届いた。
だが、友人は避けようとしない。
まるで海の中へ入っていこうとしている。
「帰るぞ!」
私は必死に友人を引っ張った。
すると友人は突然、私の手を振りほどこうと暴れ始めた。
「離せ!」
普段の友人からは考えられないほどの力だった。
そして、海に向かって叫んだ。
「今行くから!」
その瞬間――
海の向こうから、女性の声が返ってきた。
「……待ってる」
私は恐ろしくなり、友人を抱えるようにして車まで連れて行った。
車に乗せても、友人はしばらく海を見つめていた。
やがて小さく呟いた。
「……あの人、ずっとこっち見てた」
「誰が?」
友人は答えなかった。
ただ、後部座席の窓をじっと見つめている。
そして突然、震えながら言った。
「……後ろにいる」
私は振り返った。
誰もいない。
だが、後部座席には濡れた砂が落ちていた。
しかも、その砂は点々と続いていた。
まるで誰かが濡れた足で歩いたように。
私はすぐに車を発進させた。
その間、友人は一言も話さなかった。
翌朝になってから、友人に昨夜のことを聞いてみた。
すると友人は、不思議そうな顔をして答えた。
「俺、海岸なんか行ったっけ?」
私は言葉を失った。
「昨日、一緒に行っただろ」
そう言うと、友人は首を横に振った。
そしてしばらく黙ったあと、突然こう言った。
「……でも、夢の中で女の人に会った」
「どんな人?」
友人は青ざめた顔で私を見る。
「顔は見えなかった。でも……」
「でも?」
「ずっと、こう言ってた」
友人は海のほうを見るように窓の外へ目を向けた。
そして、震える声で呟いた。
「……次は一人で来てね」
あの日以来、私は夜の海へ近づいていない。
そして友人も、あの夜を境に海の話を一切しなくなった。
ただ一度だけ。
数週間後、友人のスマートフォンに見知らぬ番号から電話がかかってきた。
友人は電話に出た。
しばらく無言で聞いていたが、突然顔色を変えた。
「……もしもし?」
その直後、友人の口から出た言葉は――
「今から行く」
だった。
もちろん、その場所がどこなのか。
私は聞かなくても分かっていた。
中河原海岸。
そして電話の向こうから聞こえていたのは――
あの夜と同じ、波の音だったという。
コメント
コメントを投稿