谷中霊園――振り返ってはいけない墓道
東京・谷中。
古い寺や墓地が立ち並ぶこの街には、昼間でもどこか静かな空気が漂っている。
その中でも、ひときわ広い墓域を持つ谷中霊園には、昔から奇妙な噂があった。
「夜の墓道で、後ろから名前を呼ばれても絶対に振り返るな」
そんな話だった。
ある男性が、仕事帰りに谷中霊園の近くを歩いていた。
時刻は夜の十一時を過ぎていた。
普段なら大通りを通るのだが、その日は近道をしようと思い、霊園の脇を通る細い道へ入った。
周囲には街灯がある。
それなのに、妙に暗く感じた。
風もない。
虫の声さえ聞こえない。
男性は少し早足になった。
その時だった。
「……すみません」
後ろから、小さな声が聞こえた。
男性は足を止めた。
誰かいるのかと思ったが、振り返らなかった。
すると、もう一度。
「……すみません」
今度は、さっきより近い。
男性は怖くなり、そのまま歩き続けた。
すると今度は――
「ねえ」
耳元で囁かれたように聞こえた。
男性は思わず振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、暗い墓道が続いているだけだった。
ほっとして前を向いた瞬間、男性は異変に気づいた。
自分が歩いてきたはずの道が、なぜか見覚えのない場所になっていた。
左右には墓石が並んでいる。
そして、その中に一つだけ妙な墓があった。
古びた墓石の前に、白い花が置かれている。
男性が近づくと、墓石に刻まれた文字が目に入った。
そこには――
自分の名前が刻まれていた。
男性は息を呑んだ。
「……なんで?」
その瞬間。
背後から、また声がした。
今度は、はっきりと自分の名前だった。
「……〇〇さん」
男性は必死に振り返るのをこらえた。
すると、背後から足音が聞こえ始めた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと近づいてくる。
男性は目を閉じ、走り出した。
何度も転びそうになりながら墓道を抜け、ようやく大通りへ出た。
振り返ると、そこには霊園の入口が見えていた。
男性はその場に座り込み、荒い息を整えた。
そして、ポケットの中に違和感を覚えた。
何かが入っている。
取り出してみると、それは一枚の白い紙だった。
紙には、赤い文字でこう書かれていた。
「次は、振り返ってね」
男性は二度と、夜の谷中霊園へ近づかなかったという。
そして後日。
男性が昼間にその場所を訪れ、あの墓を探してみた。
しかし――
そこには、自分の名前が刻まれた墓など存在しなかった。
ただ、墓地の一角に置かれた白い花だけが、なぜか一本だけ残っていたという。
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