若草山――夜の山道に立つ人

奈良の若草山には、昼間とはまったく違う顔がある。

昼は観光客や鹿の姿も多く、開放的な場所だ。

しかし、日が落ちると山道は一気に静かになる。

これは、ある男性が若草山を訪れたときの話だ。

その男性は、夜の奈良を撮影するため、車で若草山の近くまで来ていた。

時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。

周囲にはほとんど人がいない。

街の明かりも遠く、聞こえてくるのは風が草を揺らす音だけだった。

男性は少しだけ山道を歩いてみることにした。

懐中電灯を手に、ゆっくりと坂道を上っていく。

すると、少し先に人影が見えた。

白っぽい服を着た誰かが、道の脇に立っている。

「こんな時間に……?」

男性がそう思った瞬間、その人影がゆっくりと歩き始めた。

男性と同じ方向へ進んでいく。

距離は十メートルほど。

声をかけようか迷ったが、相手は一度も振り返らない。

男性も後を追うように歩いた。

ところが、奇妙なことに気づいた。

足音がしない。

草の上を歩いているはずなのに、まったく音が聞こえない。

男性は立ち止まった。

すると前を歩いていた人影も、同時に止まった。

そして――

ゆっくりと振り返った。

顔は暗くて見えない。

ただ、こちらを見ていることだけは分かった。

男性は怖くなり、その場から引き返そうとした。

その瞬間だった。

背後から、

「……待って」

小さな声が聞こえた。

男性が振り返る。

誰もいない。

再び前を見る。

そこにも、もう人影はいなかった。

急いで山道を下り、車へ戻った男性は、すぐにエンジンをかけた。

そして車を走らせようとしたとき――

フロントガラスの向こうに、人が立っているのが見えた。

さっきの人物だった。

男性は息をのんだ。

その人影は、車の前に立ったまま動かない。

クラクションを鳴らしても反応しない。

やがて男性がライトを上向きにした瞬間――

そこには誰もいなかった。

慌てて車を発進させ、山を下りた男性。

翌朝、昨夜撮影した映像を確認してみると、奇妙なものが映っていた。

山道を歩いている男性の後ろ。

そこには、誰もいないはずの場所に、白い服を着た人影が映っていた。

しかもその人影は、男性を追うように少しずつ近づいていた。

最後の映像では――

人影が、カメラのすぐ後ろに立っていた。

そして録音された音声には、男性が一人だったはずの山道で、

「……待って」

という声が、はっきりと残っていたという。

若草山は、昼間なら多くの人が訪れる穏やかな場所。

だからこそ、夜の静けさの中で感じる異様な気配が、余計に恐ろしく感じられるのかもしれない。

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