旧柳生街道――後ろを歩く者
奈良の山中を通る、旧柳生街道。
かつて柳生の里へ向かう人々が歩いた古い道には、今も石畳や古い石仏が残されている。
昼間なら、木漏れ日が差し込む静かな山道だ。
しかし、ある男性がこの道を歩いたのは、日が暮れ始めた夕方だった。
「まだ明るいし、駅まで歩けるだろう」
そう思い、男性は一人で山道へ入った。
しばらくすると、周囲から人の気配が完全に消えた。
聞こえるのは、風で木の葉が揺れる音と、自分の足音だけ。
ザッ……ザッ……
そのときだった。
背後から、もう一つの足音が聞こえた。
ザッ……ザッ……
男性が立ち止まると、その音も止まった。
振り返る。
しかし、誰もいない。
「気のせいか……」
そう思って歩き出す。
すると――
ザッ……ザッ……
また後ろから足音がついてくる。
今度は、さっきより近い。
男性は振り返らず、そのまま歩き続けた。
やがて、古い石仏が並ぶ場所に差しかかった。
そこで男性は、妙な違和感に気づいた。
石仏の前に置かれた小さな花が、風もないのに揺れている。
そして、その横に――
濡れた足跡が一つだけ残っていた。
山道は乾いている。
雨も降っていない。
なのに、その足跡だけが濡れていた。
男性は急に怖くなり、足早にその場を離れた。
ところが――
今度は背後から足音がしなくなった。
安心した男性が、ふと振り返る。
誰もいない。
だが、道の中央に濡れた足跡が続いていた。
一つ。
また一つ。
そして、その足跡は男性が立っている場所まで続いていた。
男性は息を止めた。
足跡は、そこで途切れている。
まるで、誰かがすぐ後ろまで歩いてきて、立ち止まったように。
その瞬間――
耳元で、低い声がした。
「……一緒に行こう」
男性は振り返らなかった。
夢中で走り、ようやく人家の明かりが見えたところで、後ろを確認した。
そこには誰もいなかった。
ただ、山道の入口付近に立っていた一本の木。
その木の根元だけが、なぜか濡れていた。
後日、男性は地元に住む人にその話をした。
すると、その人は少し黙ったあと、こう言ったという。
「昔から、あの道では日が暮れてから一人で歩くなって言われてるんです」
理由を尋ねても、それ以上は教えてくれなかった。
そして最後に、こう付け加えた。
「もし後ろから足音が聞こえても……絶対に振り返ったらあかんよ」
その言葉を聞いた男性は、二度と日没後の旧柳生街道を歩くことはなかった。
古い山道には、今も静かな時間が流れている。
もし夕暮れ時にそこを歩くことがあったとしても――
背後から聞こえる足音だけは、確かめないほうがいいのかもしれない。
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