古洞ダム――水面に立つ女
夜の古洞ダムは、昼間とはまるで別の場所に見える。
山に囲まれたダム湖には街灯も少なく、車のライトを消すと、そこには黒い水面と木々の影しか残らない。
ある夏の夜、二人の若者が肝試しのために古洞ダムを訪れた。
時刻は午前一時を過ぎていた。
車を降りると、周囲は驚くほど静かだった。
「……なんか、ここ静かすぎないか?」
一人がそう言った瞬間だった。
湖の方から、
――ポチャン。
水に何かが落ちたような音が聞こえた。
二人は顔を見合わせた。
しかし、湖面には何もない。
もう一度、
――ポチャン。
今度は少し近い。
「魚じゃない?」
そう言って笑ったものの、二人は湖に近づく気にはなれなかった。
そのまま車へ戻ろうとした時、後ろから小さな声が聞こえた。
「……すみません」
二人が振り返る。
誰もいない。
ただ、湖の水面だけが静かに揺れていた。
「今、誰かいたよな?」
二人は急いで車へ戻った。
そしてエンジンをかけようとした、その時。
助手席に座っていた男が、突然黙り込んだ。
「……どうした?」
男はフロントガラスの先を指差した。
湖のほとりに、人が立っていた。
白っぽい服を着た女性だった。
こちらに背を向け、じっと湖を見つめている。
「誰だよ……あんなところに」
運転席の男がクラクションを鳴らした。
女性は動かない。
もう一度鳴らす。
それでも動かない。
やがて女性が、ゆっくりと振り返った。
しかし――
顔が見えなかった。
髪が顔全体を覆っていたのだ。
そして次の瞬間。
女性の姿が消えた。
「……え?」
二人が慌てて車を降りる。
だが、そこには誰もいない。
不思議だった。
女性が立っていた場所は湖までかなり距離がある。
歩いて逃げたとしても、そんな短時間で姿を消せる場所ではなかった。
二人は恐ろしくなり、すぐに車を走らせた。
しばらくして、助手席の男がスマートフォンを確認した。
肝試しの記念に撮影していた動画に、さっきの女性が映っていた。
二人は恐る恐る再生した。
そこには、湖の前に立つ女性の姿。
そして動画の最後。
女性が振り返った瞬間、画面が一度だけ暗くなった。
その直後――
画面の端に、もう一人の人影が映っていた。
女性のすぐ後ろ。
まるで水の中から這い上がってきたような、濡れた人影だった。
二人はその映像を二度と見返さなかったという。
それ以来、彼らは古洞ダムには近づいていない。
ただ、一人だけは今でも覚えている。
車を走らせている途中、バックミラーに映った湖の景色。
そこには――
車を追いかけるように、湖面の上を歩く女性の姿が映っていたことを。
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