大渕池・大渕公園――池の向こうに立つ人

数年前の秋、ある男性が友人と二人で大渕公園を訪れた。

昼間は何度か来たことがある場所だったが、その日は夜だった。

「ちょっと池を見て帰ろうぜ」

そう言って、二人は公園の奥へ歩いていった。

夜の公園は驚くほど静かだった。

街灯はあるものの、池の周辺まで来ると光が届かず、木々の間は真っ暗だった。

二人が池のほとりに立ったとき、友人が突然足を止めた。

「……あそこ、誰かいる」

男性が指差された方向を見る。

池の向こう側。

木々の間に、確かに人影が立っていた。

遠すぎて顔までは見えない。

ただ、こちらを向いていることだけは分かった。

「こんな時間に誰だよ」

男性が声をかけようとした、その瞬間だった。

人影が一歩、こちらへ近づいた。

二人は黙り込んだ。

池を回り込むにはかなりの距離がある。

それなのに、その人影は少しずつ近づいてくる。

一歩。

また一歩。

しかし、足音はまったく聞こえない。

「……おかしくないか?」

友人が小さな声で呟いた。

次の瞬間、人影が街灯の明かりに入った。

そこで二人は凍りついた。

人影には、顔がなかった。

目も鼻も口も見えない。

まるで真っ黒な影のようだった。

「逃げよう」

友人が男性の腕をつかんだ。

二人が振り返って走り出した、そのとき――

背後から、

「……待って」

という声が聞こえた。

女性のような声だった。

二人は振り返らなかった。

そのまま公園の出口まで走り、車に乗り込んだ。

エンジンをかけた男性が、バックミラーを見た。

すると――

公園の入口に、さっきの人影が立っていた。

今度は、はっきりと分かった。

その影はこちらを見ている。

そして、ゆっくりと手を上げた。

まるで、

「また来てね」

とでも言うように。

それ以来、二人は夜の大渕公園には近づかなくなったという。

ただ、男性は今でも不思議に思っている。

あの夜、池の向こうにいたものは、本当に人間だったのか。

そして最後に聞こえた、

「待って」

という声は――

いったい誰の声だったのだろうか。

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