旧由良山荘――森の廃洋館に残された声
和歌山の山あい。
木々に囲まれるようにして、一軒の古い洋館が残っている。
旧由良山荘。
かつては由良家の別荘として使われていた建物で、洋館と和館が組み合わさった、どこか異国を思わせる美しい造りをしている。
しかし、今では長い年月を経て、人の気配は消えている。
森の中にひっそりと佇むその姿から、いつしか「森の廃洋館」と呼ばれるようになった。
これは、ある男性がこの場所について語った話である。
その男性が旧由良山荘を知ったのは、古い廃墟を紹介する写真を見たことがきっかけだった。
写真に写っていたのは、森の中にある古びた洋館。
壁はところどころ傷んでいるものの、階段や部屋の造りには、かつてここで暮らしていた人々の生活が残っていた。
「こんな場所がまだ残ってるんだ……」
興味を持った男性は、ある日の夕方、その建物を遠くから見てみることにした。
森へ入ると、周囲の音が急に小さくなった。
鳥の声も、車の音も聞こえない。
ただ、風で木の葉が擦れる音だけが続いていた。
しばらく歩くと、木々の隙間から洋館が見えた。
想像していたより大きい。
しかも、夕暮れの薄暗さの中で見ると、まるで誰かがまだ住んでいるような雰囲気があった。
男性は少し離れた場所から建物を眺めていた。
その時だった。
――カタン。
建物の中から、小さな音が聞こえた。
「……誰かいる?」
思わずそう呟いた。
もちろん返事はない。
だが、数秒後。
今度は、
――コツ。
――コツ。
と、一定の間隔で音が聞こえてきた。
まるで誰かが、階段をゆっくり下りているようだった。
男性はその場から動けなくなった。
そして、
――コツ。
最後の一音が聞こえた直後。
洋館の奥にある窓に、人影が現れた。
一瞬だけだった。
白っぽい服を着た誰かが、窓の前を横切ったように見えた。
「……え?」
男性は目を疑った。
しかし、窓にはもう何もない。
森の暗闇だけが広がっている。
怖くなった男性は、その場を離れようとした。
その時。
背後から、
「……まだ、帰らないの?」
女の声がした。
男性は振り返った。
誰もいない。
森だけだった。
しかし、その声は確かに耳元で聞こえたという。
男性は一気に走り出した。
それから数日後。
男性は撮影していた写真を整理していた。
何枚か撮った洋館の写真。
その中に、一枚だけ妙な写真があった。
洋館の窓を撮った写真だった。
よく見ると、二階の窓の奥に何かが写っている。
人の顔だった。
しかも、その顔は窓の外を見ているのではない。
写真を撮った男性の方を、じっと見つめているように見えた。
男性は気味が悪くなり、その写真を消した。
ところが。
消したはずの写真が、翌朝になるとスマートフォンの中に戻っていた。
しかも、前日とは少し違っていた。
窓の中に写っていた顔が、以前よりはっきりしていたのだ。
そして写真の隅には、見覚えのないものが写っていた。
赤いカーペットの敷かれた階段。
その階段の一番下に、
誰かが立っていた。
男性はそれ以来、旧由良山荘には近づいていない。
ただ、一つだけ不可解なことがある。
あの日からしばらくの間、夜になると自宅の階段から、
――コツ。
――コツ。
という音が聞こえるようになったという。
最初は家鳴りだと思っていた。
しかし、ある夜。
音が階段の下まで来たところで、ぴたりと止まった。
そして暗闇の中から、
「……まだ、帰らないの?」
あの日とまったく同じ声が聞こえた。
男性は振り返ることができなかった。
ただ、階段の上を見つめたまま、朝まで動けなかったという。
森の中に残された、古い洋館。
そこに何が残っているのかは分からない。
けれどもし、誰もいないはずの建物から階段を下りてくる音を聞いたとしても――
その声には、決して返事をしてはいけない。
なぜなら、その声は建物の中から聞こえているとは限らないからだ。
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