ホテル松園 ――「下から聞こえる足音」
浅虫温泉の海沿いに、かつて一軒の大きなホテルが建っていた。
その名は――ホテル松園。
かつては多くの観光客が訪れ、温泉を楽しみ、窓から見える海を眺めながら夜を過ごした場所だった。
しかし、時が流れ、ホテルは閉館。
人の声が消えた建物は、少しずつ自然に飲み込まれていった。
割れた窓。
錆びついた階段。
壁に残された落書き。
そして、誰も使わなくなった客室。
いつしかホテル松園は、地元で「近づかないほうがいい場所」と囁かれるようになっていた。
ある夏の夜。
二人の若者が、ホテルの近くまでやって来た。
「本当に何か出るのかな?」
「さあ。でも、かなり怖いって話だぞ」
二人は建物の外から中を覗いた。
暗闇の向こうには、かつて客室だった部屋が並んでいる。
風が吹くたびに、割れた窓ガラスがかすかに鳴った。
そのときだった。
――コン。
建物の中から、小さな音がした。
「……今の聞いた?」
二人は顔を見合わせた。
しばらく待つ。
何も起こらない。
「たぶん風だろ」
そう言って、一人が笑った。
ところが――
――コン。
今度は、はっきり聞こえた。
まるで誰かが、階段を下りているような音だった。
二人は急に黙り込んだ。
音は止まらない。
――コン。
――コン。
――コン。
少しずつ、近づいてくる。
「……誰かいるのか?」
返事はない。
ただ、建物の奥から、
――ギィ……
古い扉が開くような音がした。
二人は怖くなり、その場を離れようとした。
その瞬間。
ホテルの二階。
暗い窓の一つに――
人影が立っていた。
黒い影だった。
じっとこちらを見ている。
「……人?」
二人が目を凝らした。
すると人影は、ゆっくりと窓から消えた。
「逃げよう!」
二人は走って車へ戻った。
エンジンをかけ、ホテルから離れようとした、そのとき。
車の中で突然、
――ドン。
後部座席の窓が叩かれた。
二人は振り返った。
誰もいない。
「……今、叩いたよな?」
「……うん」
車を急発進させた。
その夜。
二人はホテルのことを何度も話した。
だが、一人だけ気になっていることがあった。
ホテルを離れる直前。
窓に立っていた人影。
あれは――
二階にいたはずだった。
ところが、車の後ろから窓を叩いた音がしたのは、
一階だった。
そして翌朝。
撮影していたスマートフォンの映像を確認すると、さらに奇妙なことが分かった。
二階の窓に人影が映っていた時間。
画面の端に、
ホテルの階段を下りていくような黒い影が映り込んでいた。
一段。
また一段。
ゆっくりと階段を下りてくる。
そして最後の一段を降りた瞬間――
映像が突然、真っ暗になった。
その直前。
録音された音声には、かすかな声が入っていた。
「……まだ、帰らないで」
それ以来。
二人はホテル松園の名前を聞くだけで、あの夜のことを思い出すという。
そして今でも、あのホテルの前を夜に通ると――
誰もいないはずの建物の中から、
「コン……コン……」
と、階段を下りてくるような音が聞こえることがあるという。
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