旧摩耶観光ホテル――最後の宿泊客

深夜の摩耶山は、街の明かりが嘘のように遠かった。

大学生の健太は、友人の亮と二人で山道を歩いていた。

目的地は、長年「廃墟の女王」と呼ばれてきた、旧摩耶観光ホテル。

もちろん、建物の内部は立入禁止だ。

二人もそれは知っていた。

ただ、少し離れた場所から写真を撮るだけ。

そのつもりだった。

やがて木々の隙間から、古びた建物が姿を現した。

月明かりに照らされたその姿は、まるで山の中に巨大な船が座礁しているようだった。

「……すげえな」

亮が小さく呟いた。

その瞬間だった。

――カラン。

建物の中から、金属を落としたような音がした。

二人は顔を見合わせた。

「今の、何?」

「風じゃね?」

そう言いながら、亮がスマートフォンのライトを向ける。

割れた窓。

崩れかけた壁。

そして、暗闇の奥に続く廊下。

何もいない。

「帰ろうぜ」

健太がそう言ったときだった。

スマートフォンが突然、震えた。

画面を見る。

写真フォルダに、見覚えのない画像が一枚追加されていた。

「……何これ?」

そこには、古いホテルの廊下が写っていた。

二人が撮った写真ではない。

しかも、画像の奥に――

白い服を着た女性が立っていた。

「亮……これ」

「加工じゃないの?」

二人が画面を覗き込んだ、その瞬間。

――カラン。

また音がした。

今度は、はっきり聞こえた。

建物の中から。

そして続いて、

――コツ。

――コツ。

――コツ。

誰かが廊下を歩くような音。

二人は無言になった。

音は少しずつ近づいてくる。

――コツ。

――コツ。

――コツ。

そして突然、止まった。

静寂。

健太は恐る恐る建物を見る。

すると、二階の窓に――

人影が立っていた。

「……誰?」

亮が震える声で呟いた。

人影は動かない。

ただ、こちらを見ている。

次の瞬間。

二階の窓から、白い顔だけがゆっくりとこちらへ向いた。

「うわっ!」

二人は一斉に走り出した。

山道を転びそうになりながら駆け下りる。

振り返らない。

絶対に振り返らない。

そう思っていた。

しかし、途中で健太のスマートフォンから着信音が鳴った。

知らない番号だった。

「……出るな」

亮が言った。

だが、健太はなぜか電話に出てしまった。

『……もしもし』

返事はない。

ただ、

ザーッ……

という雑音の向こうから、かすかな声が聞こえた。

『……お客様……』

健太の足が止まった。

『……お部屋の準備ができました』

「え……?」

その瞬間。

電話の向こうから、

無数の足音が聞こえた。

――コツ。

――コツ。

――コツ。

一人ではない。

何十人もの人間が、廊下を歩いている。

そして最後に、

女の声が囁いた。

『……今夜は、何名様ですか?』

健太はスマートフォンを投げ捨てた。

二人はそのまま山を下りた。

翌朝。

健太は昨夜の写真を確認した。

例の女性が写った写真は、消えていた。

しかし、一枚だけ残っていた。

昨夜、二人が撮った覚えのない写真。

それはホテルの古い客室だった。

ベッドの上に、白いシーツ。

そして壁には、古びた宿泊者名簿。

健太は拡大して、その文字を見た。

そこには――

「宿泊者 2名」

と書かれていた。

そして、その下に日付があった。

昨日の日付。

健太は青ざめた。

さらに、その写真の右下には、小さく手書きの文字が残っていた。

「チェックアウト 未」

その日以来。

二人のスマートフォンには、毎晩午前2時になると、同じ番号から着信が入るという。

電話に出ることはない。

ただ、留守番電話だけは毎回残っている。

録音されているのは、決まって同じ言葉。

『……お客様』

『お忘れ物がございます』

『……ホテルまで、お戻りください』

そして最後に――

必ず、廊下を歩く足音が入っている。

――コツ。

――コツ。

――コツ。

まるで今も、誰かが二人を迎えに来ているかのように。

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