焼米坂――坂の途中で呼ぶ声

その坂には、昔から妙な噂があった。

夜になると、坂の途中から誰かに名前を呼ばれる。

ただし、声の主を探してはいけない。

そう言われていた。

ある秋の夜、私は友人と二人で焼米坂を訪れた。

時計は午前一時を過ぎていた。

街灯の少ない坂道を歩いていると、周囲の音が急に消えた。

車の音も、虫の声も聞こえない。

「……静かすぎないか?」

友人がそう言った直後だった。

坂の上から、小さな声が聞こえた。

「……ねえ」

女の声だった。

私たちは足を止めた。

「誰かいる?」

友人が声を返す。

すると、少し離れた場所から、

「……こっち」

と、また声がした。

声のする方向を見る。

だが、そこには誰もいない。

ただ暗い坂道が続いているだけだった。

「行くなよ」

私は友人の腕をつかんだ。

すると今度は、すぐ耳元で声がした。

「……なんで来ないの?」

二人とも凍りついた。

振り返っても、誰もいない。

しかし、足元を見ると妙なことに気づいた。

私たちの前に、濡れた足跡が続いていた。

裸足のような小さな足跡だった。

それは坂を下ってきて、私たちの足元で途切れている。

「帰ろう」

友人が震えた声で言った。

私たちは急いで坂を下った。

ところが、いくら歩いても坂が終わらない。

同じ街灯。

同じ塀。

同じ曲がり角。

まるで同じ場所を何度も歩いているようだった。

そのとき、後ろから声がした。

「……待って」

今度は、友人の声だった。

私は反射的に振り返ろうとした。

だが、隣にいる友人が私の肩を強くつかんだ。

「振り返るな」

「え?」

友人は青ざめていた。

そして、震えながら言った。

「今の声……俺じゃない」

その瞬間、背後から二人分の足音が聞こえた。

一歩。

また一歩。

私たちの歩く速度に合わせるように、ゆっくり近づいてくる。

そして最後に、

耳元で女の声がした。

「……一緒に帰ろうよ」

次の瞬間、街灯が消えた。

気がつくと、私たちは坂の入口に立っていた。

それ以来、二人とも焼米坂には近づいていない。

ただ、友人は今でも時々こう言う。

「あの夜、最後まで聞こえてたんだ」

「何が?」

そう聞くと、友人は黙り込む。

そして、しばらくして小さな声で答える。

「俺たちが坂を下りてたとき……後ろから聞こえてた足音」

「うん」

「……三人分だったんだよ」

あの夜、私たちは二人だった。

では、もう一人は誰だったのか。

今でも分からない。

ただ、焼米坂を夜に通るときだけは――

坂の途中で、誰かに名前を呼ばれても、

絶対に返事をしてはいけない。

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