安濃ダム――湖面に立つ女
夜の安濃ダムは、昼間とはまるで違う顔を見せる。
周囲を山に囲まれたダム湖は、風が止まると鏡のように静まり返る。
街灯も少なく、夜になると聞こえてくるのは、木々のざわめきと遠くで鳴く鳥の声くらいだった。
ある夏の夜、二人の若者が安濃ダムへ車で向かった。
目的は、夜のダムを見てみたいという、ただそれだけだった。
ダムの近くまで来ると、二人は車を停め、湖を眺めながら話をしていた。
「ここ、本当に何も聞こえないな」
友人がそう言った直後だった。
湖の方から、
――チャプ……。
水を叩くような小さな音が聞こえた。
二人が湖面を見る。
しかし、そこには何もない。
「魚でも跳ねたんじゃない?」
そう言って笑ったものの、二人ともなぜか湖から目を離せなかった。
そのとき、友人が突然黙った。
「……なあ」
「どうした?」
友人は湖の奥を指差していた。
暗い湖面の上に、何かが立っている。
最初は木か何かだと思った。
だが、目を凝らすと、それは人のような形をしていた。
白っぽい服を着た女が、湖の上に立っている。
「……人?」
二人は言葉を失った。
女はじっとこちらを向いている。
顔までは見えない。
それなのに、なぜかこちらを見ていることだけは分かった。
そして――
女がゆっくりと一歩、こちらへ近づいた。
水面を歩いている。
「帰ろう」
友人が小さな声で言った。
二人は慌てて車へ戻った。
エンジンをかけようとしたが、なぜか一度でかからない。
二度、三度とキーを回す。
その間も、友人は後ろを見続けていた。
「……近づいてきてる」
「何が?」
「さっきの女……」
振り返る勇気はなかった。
やがてエンジンがかかり、二人はその場を離れた。
しばらく走ったところで、友人が突然、
「止めて」
と言った。
「なんで?」
「……後ろから、ずっと水の音がする」
車を停めると、確かに聞こえた。
――チャプ……。
――チャプ……。
まるで誰かが車のすぐ後ろを歩いているような音だった。
二人は怖くて振り返ることができなかった。
そのまま車を走らせ、山を下りた。
翌朝、友人から一枚の写真が送られてきた。
昨夜、車の中から何気なく撮影していた湖の写真だった。
写真には暗い湖面と山しか写っていない。
しかし、拡大してみると――
湖の中央に、白い人影が立っていた。
そして、その人物の顔だけが不自然なほどこちらを向いていた。
さらに恐ろしいことに、その写真を撮った時間は二人が車を出発する数分前。
つまり、写真を撮った時点では、女はまだ湖の中央にいたはずだった。
では、車の後ろから聞こえていた水音は――
いったい誰のものだったのだろうか。
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