鏡島弘法――川向こうから呼ぶ声
夜の鏡島弘法周辺は、昼間とはまるで違う顔を見せる。
寺のすぐ北には長良川が流れ、昼間なら穏やかに見える水面も、夜になると黒く沈んでいる。
ある男性が、深夜にその周辺を車で通った。
用事を終えた帰り道だった。
時計を見ると、午前一時を少し過ぎていた。
普段なら何も気にしない道だったが、その日はなぜか、川の方から妙な音が聞こえてきた。
――チャプン。
水面を誰かが歩いているような音だった。
「こんな時間に?」
男性は車を止め、窓を少し開けた。
すると、今度ははっきりと聞こえた。
「……すみません」
女の声だった。
男性は川沿いを見た。
暗闇の中に、人影が立っている。
白っぽい服を着た女性のようだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、女性はゆっくりこちらを向いた。
しかし、顔が見えない。
街灯の光が届いているはずなのに、顔だけが真っ黒だった。
そして女性は、小さな声で言った。
「向こう岸へ……渡りたいんです」
男性は一瞬、意味が分からなかった。
「ここから渡れる場所は……」
そう言いかけた瞬間、女性が川を指差した。
「船が来ますから」
その言葉に、男性は背筋が凍った。
この辺りには、昔から長良川を渡る「小紅の渡し」があり、鏡島弘法への参拝者にも利用されてきたという。
だが、深夜の川に船が来るはずはない。
男性がもう一度女性を見ると――
そこには誰もいなかった。
代わりに、川面の真ん中に小さな明かりが浮かんでいた。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
そして、その明かりの下から、
「……チャプン」
と、水を叩く音が聞こえた。
男性は慌てて車を発進させた。
そのまま鏡島弘法の前を通り過ぎようとしたとき、バックミラーを見た。
寺の方向に、さっきの女性が立っていた。
今度は顔が見えた。
女性は笑っていた。
そして、その口がゆっくり動いた。
「次は……一緒に渡りましょう」
男性は二度と、その道を夜に通らなくなったという。
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