矢田峠登り口近くのトンネル――消えない親子の影

矢田峠の登り口近くに、ひっそりと口を開けている小さなトンネルがある。

昼間に見れば、ただの古びた通路にしか見えない。

しかし、このトンネルには昔から、妙な噂があった。

「トンネルの中ほどに、親子の姿みたいな染みがある」

そして――

「夜になると、その親子が現れる」

というのだ。

ある夏の夜、私は友人と二人で、そのトンネルを訪れた。

周囲には民家の明かりもほとんどなく、聞こえるのは木々が風に揺れる音だけだった。

懐中電灯を手に、トンネルへ入る。

入口から数メートル進んだところで、友人が突然立ち止まった。

「……なあ」

「どうした?」

友人は壁を指差した。

そこには、確かに何か黒っぽい染みが浮かんでいた。

大きな影のような染み。

その横には、少し小さな染みもある。

まるで、大人と子供が並んで立っているように見えた。

「これ……親子って言われてるやつじゃないか?」

私は笑って、

「ただの汚れだろ」

そう言った。

その瞬間だった。

トンネルの奥から、

……ペタ。

……ペタ。

と、濡れた靴で歩くような音が聞こえた。

私たちは顔を見合わせた。

音は少しずつ近づいてくる。

……ペタ。

……ペタ。

しかし、奥には誰もいない。

「誰かいるんじゃないか?」

友人が声をかけた。

返事はない。

代わりに、壁の染みを見ていた私は、あることに気づいた。

さっきまで大人の影のように見えていた染みが――

少しずつ形を変えている。

人間の顔のように見えた。

そして、その隣の小さな染みも、子供の顔のようになっていた。

「……帰ろう」

私がそう言うと、友人も無言で頷いた。

急いで入口へ戻ろうとした、その時。

背後から、

「……待って」

女の声がした。

私たちは振り返らなかった。

それでも、もう一度聞こえた。

「この子を……連れていかないで」

次の瞬間。

友人が突然、私の腕を強く掴んだ。

「見ちゃダメだ」

「え?」

「後ろ……」

私は耐えきれず、ほんの一瞬だけ振り返った。

そこには誰もいなかった。

ただ、壁に浮かんでいた親子の染みだけがあった。

しかし――

子供の染みが、こちらを向いていた。

そして、そのすぐ横にあった母親らしき染みは、

まるで子供の手を握るように形を変えていた。

私たちは一気にトンネルを飛び出した。

車まで戻ってから、友人が震える手でスマートフォンを確認した。

「……写真、撮ってたんだ」

トンネルの入口で撮影した一枚。

そこには、暗いトンネルの奥が写っていた。

そして中央には――

私たちの後ろに立つ、二つの人影。

大人と子供。

友人は、その写真をすぐに消した。

ところが数日後。

スマートフォンに残っていた別の写真を見て、私は凍りついた。

そこにはトンネルの入口だけが写っていた。

誰もいない。

何もない。

ただ、画面の隅に小さな子供の手だけが写っていた。

その手は――

まるでこちらへ向かって、

「おいで」

と呼んでいるように見えた。

それ以来、私はトンネルの写真を撮らなくなった。

そして友人も、あの場所には二度と近づいていない。

今でもあのトンネルでは、親子の姿に見える染みや女性の霊、写真に不思議なものが写るという噂が残っている。

もちろん、それが本当に霊なのかは分からない。

ただ一つだけ。

あの夜、私たちが聞いた女の声だけは――

今でも、どうしても忘れることができない。

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