旧塩乃湯――湯気の向こう

土崎の古い町並みを歩いていたとき、私は一軒の古い建物の前で足を止めた。

「旧塩乃湯」。

かつて銭湯として使われていた建物だ。

大正時代に建てられたというその建物には、今も昔の面影が残っている。

特に目を引いたのは、脱衣所の天井に残された古いレリーフだった。

しばらく眺めていると、不思議なことに気づいた。

建物の中から、

「チャプ……」

という音が聞こえた。

水の音だった。

もちろん、もう銭湯として営業しているわけではない。

「気のせいか……」

そう思って、その場を離れようとした。

すると――

チャプン。

今度は、はっきり聞こえた。

まるで誰かが浴槽に入ったような音。

気になった私は、建物の方をもう一度振り返った。

その瞬間。

窓の奥に、白い影が立っていた。

人のようにも見える。

しかし、顔がない。

ただ白い影だけが、こちらをじっと見ている。

私は慌ててその場を離れた。

ところが、その夜。

撮影した写真を確認していると、一枚だけ妙な写真があった。

旧塩乃湯の脱衣所を撮った写真。

天井のレリーフの下に――

見知らぬ女性が立っていた。

しかも、その女性は服を着ていない。

昔の銭湯で使われていたような白い手ぬぐいを頭に乗せ、こちらに背を向けている。

「……誰だ、これ?」

拡大してみる。

すると、写真の隅に小さな文字が写っていた。

まるで誰かが書いたような文字だった。

「まだ、お湯はありますか」

背筋が凍った。

その瞬間、部屋の中に――

チャプン。

水の音が響いた。

私は振り返った。

もちろん、浴槽なんてない。

それでも、もう一度。

チャプン……。

そして、耳元で女の声がした。

「……熱いですよ」

翌日。

私は旧塩乃湯の写真をすべて消した。

しかし、一枚だけ消すことができなかった。

あの女性が写っていた写真だ。

何度削除しても、数秒後には元に戻っている。

そして今でも、その写真を見るたびに思う。

もし、あの場所で水の音を聞いても――

絶対に「誰かいますか?」と声をかけてはいけない。

返事が返ってくるからだ。

「はい。ずっと待っていました」

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