『識名霊園の白い道』
夜の識名霊園には、昼間とはまったく違う空気が流れている。
ある若者が、友人からこんな話を聞いた。
「識名霊園には、夜になると現れる道があるらしい」
その道は、昼間に歩いても存在しない。
けれど深夜、霊園の中を歩いていると、突然、墓と墓の間に細い白い道が現れるという。
「その道を最後まで歩いちゃいけない」
友人はそう言った。
「もし最後まで行ったら、自分の知らない墓の前に着く。そして……そこに自分の名前がある」
そんな馬鹿な話があるか。
そう思った若者は、その夜、一人で識名霊園へ向かった。
時計は午前1時を回っていた。
霊園の中は静まり返っていた。
風が木々を揺らす音。
遠くから聞こえる車の音。
それ以外には何も聞こえない。
しばらく歩いていると、若者は奇妙なことに気づいた。
さっきまで何度も通ったはずの道なのに、前方に見覚えのない細い道が伸びている。
月明かりを受けたその道は、まるで白い布を敷いたように見えた。
「……これか?」
若者はスマートフォンのライトを向けた。
道の両側には、古い墓が並んでいる。
そして、その奥から――
「……カラン」
何かが転がる音がした。
若者は立ち止まった。
もう一度。
「……カラン……カラン……」
墓石の向こうから、何かがこちらへ近づいてくる。
怖くなった若者は引き返そうとした。
ところが――
来たはずの道がない。
後ろを見ると、そこにも墓が並んでいるだけだった。
「……え?」
前には白い道。
後ろにも墓。
左右にも墓。
若者は仕方なく、白い道を進むしかなかった。
数十メートル歩いたところで、一つの墓が見えた。
その墓だけ、周囲より妙に新しく見えた。
そして墓石には、名前が刻まれていた。
若者は息をのんだ。
そこに刻まれていたのは――
自分の名前だった。
「……嘘だろ」
思わず墓石に手を伸ばす。
その瞬間。
背後から、女の声がした。
「やっと……帰ってきたね」
若者は振り返った。
誰もいない。
しかし、耳元で誰かが囁いた。
「ずっと待っていたよ」
若者は叫びながら走った。
気がつくと、霊園の入口に立っていた。
空が少し明るくなり始めている。
震える手でスマートフォンを見ると、午前5時47分。
4時間以上も霊園の中にいたことになる。
だが、若者には数十分しか経っていないように感じられた。
後日、友人にその話をすると、
「だから言っただろ。最後まで歩くなって」
そう言われた。
若者は、あの夜のことを二度と思い出したくなかった。
ところが数日後。
スマートフォンに入っていた写真を整理していると、見覚えのない一枚の写真が出てきた。
真っ暗な霊園。
白い道。
そして、その奥に立つ墓。
写真を拡大すると、墓石の横に小さく人影が写っていた。
白い服を着た女だった。
さらに恐ろしいことに――
その女の隣には、もう一人、人影が立っていた。
それは若者自身だった。
ただし――
写真の中の若者は、こちらを向いて笑っていた。
そして写真の日付は、
「午前1時13分」
となっていた。
若者が霊園に入った時間と、ほぼ同じだった。
それ以来、若者は夜の識名霊園には近づかなくなった。
だが今でも、霊園の近くを通るときだけは、決まって同じ声が聞こえるという。
「……帰ってきて」
識名霊園周辺には、戦後の墓地移転や都市計画に伴う墓地整理の歴史が残っています。また、近隣の識名平には「遺念火(いねんび)」という伝承も記録されています。
だから地元では、こんなふうに囁く人もいる。
「夜の墓地で、自分の名前を呼ばれても……絶対に振り返ってはいけない」。
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