大谷観音――岩壁の向こうから
夜の大谷観音には、昼間とはまったく違う空気が流れている。
大谷寺は大谷石の岩壁に包まれるように建っており、堂内には岩そのものに刻まれた石仏が並んでいる。
その場所を、ある男が夜に訪れた。
もちろん、寺の中に入るつもりはなかった。
ただ、周辺の道を車で通り、少しだけ歩いてみようと思ったのだ。
時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。
周囲には誰もいない。
街灯の明かりも岩壁に遮られ、少し先は真っ暗だった。
男が大谷観音の近くまで歩いてきたときだった。
「……コン、コン」
どこからか、石を叩くような音が聞こえた。
最初は風の音だと思った。
しかし、
「コン……コン……」
一定の間隔で、何度も続いている。
男は音のする方向へ顔を向けた。
そこには巨大な岩壁があるだけだった。
耳を澄ます。
すると今度は、
「コン……コン……コン……」
明らかに、岩の向こう側から聞こえてくる。
誰かが中から石を叩いている。
そう思った瞬間、男の背中に冷たい汗が流れた。
大谷の岩壁には、かつて採石に使われた場所や、古い横穴の跡が残っている。
「誰かいるんですか?」
思わず声をかけてしまった。
音が止まった。
静寂。
男は少し安心した。
だが――
「……いるよ」
背後から声がした。
男は振り返った。
誰もいない。
ただ、暗闇の中に大谷観音の岩壁が立っている。
そして、もう一度。
「コン……コン……」
今度は、すぐ目の前。
男が岩壁を見ると、そこに小さな黒い穴が開いていることに気づいた。
昼間なら気にも留めないような、小さな隙間だった。
その奥から、
「……こっち」
という声がした。
男は一歩後ずさった。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
撮影していた覚えのない写真が一枚、保存されていた。
そこに写っていたのは、大谷観音だった。
しかし、何かがおかしい。
岩壁に刻まれた観音像の顔の下。
本来なら何もないはずの場所に、
人の顔がいくつも写っていた。
しかも全員がこちらを見ている。
男は慌てて写真を消した。
そして走って車へ戻った。
エンジンをかけ、急いでその場を離れる。
しばらく走ったところで、ようやく落ち着いた。
「気のせいだ……」
そう呟いた。
そのときだった。
カーナビの画面が勝手に切り替わった。
現在地を示しているはずの画面に、
見覚えのない文字が表示されていた。
――大谷観音。
男は青ざめた。
もう大谷からはかなり離れている。
それなのにナビは、まるで戻れと言うように、同じ場所を示している。
そして車の後部座席から、
「コン……コン……」
小さな音が聞こえた。
男は振り返れなかった。
その音は、しばらく続いた。
やがて、
「コン……」
最後の一音が鳴った。
翌朝、男は車を確認した。
後部座席には何もなかった。
ただ、座席の隅に大谷石のような小さな石が一つだけ落ちていた。
そして、その石には――
小さな指の跡が、いくつも残っていたという。
大谷には、古くから岩山や地獄谷にまつわる伝承が残されている。
静かな岩壁を見上げたとき、
もし中から「コン、コン」と音が聞こえても、
決して返事をしてはいけない。
その音は、岩の中から誰かが助けを求めている音ではない。
こちら側にいる人間を、
向こう側へ呼んでいる音なのかもしれない。
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