春日山原始林――森の奥からついてくるもの
奈良を訪れた大学生の男性が、春日山原始林を歩いたのは、夕方近くのことだった。
昼間は観光客も多かったが、少し山道を進むと、周囲から人の気配が消えていった。
聞こえるのは、木々の葉が風に揺れる音と、自分の足音だけ。
「こんなに静かな場所なんだな……」
そう思いながら歩いていると、突然、後ろから――
ザッ。
落ち葉を踏む音がした。
振り返る。
しかし、誰もいない。
気のせいだと思い、再び歩き始める。
すると今度は、
ザッ……ザッ……。
一定の間隔で、足音がついてくる。
立ち止まると、足音も止まる。
歩き出すと、また聞こえる。
まるで、一定の距離を保ちながら誰かが後ろを歩いているようだった。
怖くなった男性は、スマートフォンを取り出した。
しかし、なぜか圏外。
「まあ、山だし……」
そう自分に言い聞かせ、早足で歩いた。
すると、前方の木々の間に、人影が見えた。
黒っぽい服を着た誰かが、こちらに背を向けて立っている。
「すみません!」
声をかける。
人影は動かない。
もう一度、
「すみません!」
と声をかけた瞬間だった。
人影が、ゆっくりと振り返った。
顔が見えた。
だが、その顔には目も鼻も口もなかった。
ただ、真っ暗な顔がこちらを向いていた。
男性は声も出せず、その場から走り出した。
背後から、
ザッ、ザッ、ザッ……
と足音が追いかけてくる。
必死に山道を下っていると、突然、耳元で女とも男ともつかない声がした。
「……まだ、帰らないの?」
男性は振り返らなかった。
そのまま夢中で走り続け、ようやく人のいる場所まで戻った。
振り返ると、誰もいない。
安心してスマートフォンを見ると、圏外だったはずなのに、いつの間にか時刻が表示されていた。
そこで男性は違和感に気づいた。
森に入ったのは午後4時過ぎ。
ところが、スマートフォンには――
「午後7時42分」
と表示されていた。
自分では、ほんの30分ほど歩いたつもりだった。
後日、男性はその日のことを友人に話した。
すると友人から、こんなことを言われた。
「春日山の原始林って、暗くなってから一人で入る場所じゃないらしいよ」
そして最後に、こう続けた。
「森の中で足音が聞こえても、絶対に振り返らないほうがいいって」
男性は、その意味を今でも考える。
あの日、自分が見た黒い人影。
そして、背後から聞こえていた足音。
もし、あのとき振り返っていたら――
森から無事に戻れなかったのかもしれない。
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