坊ヶ坂の「後ろから来る女」

夜の坊ヶ坂には、昔から妙な噂があった。

「坂を一人で歩くとき、後ろから足音が聞こえても、絶対に振り返るな」

それだけなら、よくある怪談だった。

しかし、その理由を知る人は、誰も詳しく話そうとはしなかった。

ある夏の夜、一人の男が仕事帰りに坊ヶ坂を歩いていた。

時刻は午前零時を少し過ぎていた。

街灯はところどころしかなく、坂道の先は暗闇に溶けている。

男が坂を上っていると、

――コツ、コツ、コツ。

背後から、誰かの足音が聞こえた。

「こんな時間に?」

男はそう思ったが、振り返らなかった。

足音は一定の間隔で近づいてくる。

――コツ、コツ、コツ。

男が歩けば、後ろも歩く。

男が少し速くなれば、後ろの足音も速くなる。

やがて、耳元で聞こえるほど近くなった。

それでも男は振り返らなかった。

そのときだった。

「……ねえ」

女の声がした。

男の背中が凍りついた。

声は、すぐ後ろから聞こえた。

「ねえ……私、見えてる?」

男は答えなかった。

すると女は、もう一度言った。

「振り返ってよ」

男は必死に前だけを見て歩いた。

すると突然――

足音が消えた。

男は少し安心した。

そして坂を上り切ったところで、ようやく後ろを振り返った。

誰もいなかった。

男は胸を撫で下ろし、そのまま家へ帰った。

ところが翌朝。

スマートフォンに、昨夜撮った覚えのない写真が一枚保存されていた。

写真には、暗い坂道が写っていた。

その中央に、男の背中。

そして――

男のすぐ後ろに、長い髪の女が立っていた。

顔は写っていない。

ただ、女の右手だけが、男の肩に触れていた。

男は慌てて写真を消した。

しかし、その日の夜。

眠りにつこうとしたとき、部屋の外から音が聞こえた。

――コツ。

――コツ。

――コツ。

そして、玄関の前で足音が止まった。

しばらく沈黙が続いた。

すると、ドアの向こうから女の声がした。

「……今度は、ちゃんと見てね」

その瞬間。

男のスマートフォンが勝手に点灯した。

画面には、昨夜の坂道の写真が表示されていた。

だが、昨日とは違っていた。

女の顔が、はっきり写っていた。

そしてその顔は――

男自身の顔だった。

それ以来、男は坊ヶ坂を二度と通らなくなった。

ただ、近所では今でもこんな話が囁かれている。

夜の坊ヶ坂で後ろから足音が聞こえたとき、

絶対に振り返ってはいけない。

なぜなら、そこにいるものは、

「あなたの後ろ」にいるとは限らないからだ。

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