荒川水門――水面に立つ女

深夜の荒川水門は、昼間とはまるで違う場所に見える。

川沿いの道には人の姿がなく、聞こえるのは風の音と、暗い水面が護岸にぶつかる音だけだった。

ある夜、私は一人で水門の近くを歩いていた。

時刻は午前一時を少し過ぎた頃。

スマートフォンの明かりを頼りに歩いていると、ふと川のほうに人影が見えた。

水門から少し離れた場所。

暗い川の中に、誰かが立っている。

最初は釣り人だと思った。

しかし、どう見てもおかしい。

その人物は、水の上に立っていた。

しかも、膝から下が完全に水の中に沈んでいるのに、身体がまったく揺れていない。

私は立ち止まった。

「……こんな時間に?」

声をかけようとした瞬間、その人物がゆっくりこちらを向いた。

長い髪。

白っぽい服。

顔は暗くて見えない。

それでも、こちらを見ていることだけは分かった。

私は怖くなり、目をそらした。

そして数秒後、もう一度川を見る。

そこには誰もいなかった。

「……帰ったのか?」

そう思って歩き出した。

ところが、数歩進んだところで妙な音が聞こえた。

ペチャ……。

ペチャ……。

背後から、水を踏むような音。

私は振り返った。

誰もいない。

しかし、水門へ続く道には、濡れた足跡が残っていた。

ひとつ。

またひとつ。

そして、その足跡は川から上がってきたように、こちらへ向かって続いている。

私は急いで歩いた。

すると、スマートフォンが突然震えた。

画面を見ると、知らない番号から着信が入っていた。

出るつもりはなかった。

だが、着信は何度も続いた。

やがて画面に表示された番号が消え、代わりにカメラが勝手に起動した。

画面には、さっきまで歩いていた道が映っている。

そして――

その画面の端に、女が立っていた。

すぐ後ろだった。

私は反射的に振り返った。

何もいない。

再びスマートフォンを見る。

女の姿も消えている。

その瞬間、耳元で小さな声がした。

「……見つけた」

私は走った。

振り返ることはできなかった。

ただ、背後から聞こえてくる水音だけが、少しずつ近づいてくる。

ペチャ……。

ペチャ……。

ペチャ……。

ようやく明るい道路まで出たところで、私は立ち止まった。

恐る恐る後ろを見る。

誰もいない。

ほっとしてスマートフォンを確認すると、カメラロールに見覚えのない写真が一枚保存されていた。

そこに写っていたのは、暗い荒川の水面。

そして、水面の中央に立つ女。

女は遠くを見ていた。

だが、写真を拡大すると、その顔だけがこちらを向いていた。

口元には、笑っているような表情が浮かんでいる。

その写真を消した直後、スマートフォンの画面が暗くなった。

そして真っ暗な画面に、文字が浮かび上がった。

「次は、川の中で会おう」

それ以来、私は荒川水門には近づいていない。

ただ、あの夜から数年が経った今でも、雨の夜になると、ときどき自宅の玄関前に濡れた足跡が残っている。

川から離れた場所なのに。

しかもその足跡は、いつも玄関の前で止まっている。

まるで誰かが、ずっと私の帰りを待っているかのように。

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