東谷山――山頂から聞こえた声
夜の東谷山を歩いたことがあるという男性から、こんな話を聞いた。
数年前の秋、男性は友人と二人で東谷山を訪れた。
昼間は何度か来たことがあったが、その日は仕事が終わってからのため、山に入ったのは夜の十時を過ぎていた。
「夜の山って、昼間とは全然違うんですよ」
懐中電灯の明かりを頼りに、二人は静かな山道を進んでいった。
周囲には街の明かりが見えている。
そのため、男性はそれほど怖いとは思っていなかった。
ところが、山頂に近づいたところで、友人が突然立ち止まった。
「……今、誰かいた?」
男性が前を見る。
しかし、道には誰もいない。
木々の間から風が吹き、葉が擦れる音だけが聞こえていた。
「気のせいじゃない?」
そう言って再び歩き始めた、その直後だった。
山の上から、女性の声が聞こえた。
「……こっち」
二人は同時に顔を見合わせた。
声は確かに人の声だった。
しかも、すぐ近くから聞こえたように感じた。
「誰かいるんですか?」
男性が声をかける。
返事はない。
すると今度は、先ほどよりはっきりと、
「こっち……」
と聞こえた。
声のした方向には、細い脇道があった。
友人は「行かないほうがいい」と言った。
しかし男性は、誰かが迷っているのかもしれないと思い、懐中電灯を向けた。
そこには誰もいなかった。
ただ、木々の間に人が立っていたような跡だけが残っていた。
二人が引き返そうとした瞬間、背後から声がした。
「……なんで帰るの?」
今度は、耳元で囁かれたように聞こえた。
二人は振り返らず、一気に山道を下った。
途中で何度も、後ろから枝を踏む音が聞こえた。
しかし、決して振り返らなかったという。
山を下り、街灯のある場所まで戻ってから、男性が初めて後ろを振り返ると――
山道の入り口に、白っぽい人影が立っていた。
その人影は、こちらを見ているようだった。
そして男性が目を離した一瞬の間に、姿は消えていた。
その後、男性は夜の東谷山には二度と行っていない。
あの夜、二人が聞いた声が誰のものだったのか。
今でも分からないという。
ただ、男性には一つだけ気になることがある。
あの声は、山を下りようとした二人に向かって、
「なんで帰るの?」
と聞いた。
まるで――
最初から二人が山から帰ることを知っていたかのように。
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