黒森山――山から聞こえる声

その山では、日が暮れる前に帰らなければならない。

地元の人たちは、昔からそう言っていた。

「暗くなってから、山の中で名前を呼ばれても、絶対に返事をするな」

理由を尋ねても、誰も詳しくは話してくれなかった。

ある秋の夕方、私は一人で黒森山へ向かった。

目的は、山の奥にある古い道を撮影することだった。

登り始めたときは、まだ明るかった。

鳥の声も聞こえていた。

ところが、山道を進むにつれて、周囲が妙に静かになっていった。

時計を見ると、午後四時半。

まだ日没には早い。

なのに、森の中だけが夜のように暗かった。

そのときだった。

「……おい」

後ろから声がした。

振り返る。

誰もいない。

気のせいだと思い、歩き続けた。

しばらくすると、また聞こえた。

「……待って」

今度は、はっきり聞こえた。

声は、すぐ後ろにいるようだった。

私は立ち止まった。

そして、ふと地面を見る。

自分の足跡の横に、もう一人分の足跡があった。

しかも、その足跡は――

山の奥から、自分の後ろまで続いていた。

私は急いで引き返した。

すると、森の中から何度も声がした。

「こっちだよ」

「ここにいるよ」

「名前、呼んで」

最後の言葉を聞いた瞬間、私は地元の人から聞いた話を思い出した。

――名前を呼ばれても、返事をするな。

私は無言で歩き続けた。

すると今度は、声が自分の名前を呼び始めた。

一度。

二度。

三度。

声は次第に近づいてくる。

「……○○」

私は絶対に振り返らなかった。

やがて山道の出口が見えた。

その瞬間、背後から耳元で、

「返事してくれれば、一緒に帰れたのに」

と囁かれた。

私は夢中で山を下りた。

麓に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。

後日、撮影した映像を確認してみた。

山道を歩いている私の背後。

そこには、誰も映っていなかった。

ただ、一箇所だけ。

私が立ち止まった場面で、木々の間から白い顔がこちらを見ていた。

そして音声を大きくすると――

私が聞いた声とは別に、もう一つの声が録音されていた。

「……どうして返事しなかったの?」

その声は、映像を見ている私のすぐ後ろから聞こえた。

私は慌てて振り返った。

もちろん、そこには誰もいなかった。

ただ、部屋の外から――

「……おい」

と、あの日と同じ声が聞こえた。

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