佐波川ダム――湖面に立つ老婆

夜の佐波川ダムには、近づいてはいけない時間がある。

地元では昔から、そんな噂が囁かれていた。

特に午前二時。

その時間に大原湖の湖畔を車で走っていると、道路脇に白い服を着た老婆が立っているという。

ある夏の夜。

大学生のAさんは、友人二人と肝試しのため佐波川ダムへ向かった。

時計は午前一時五十分。

車のヘッドライトだけが、真っ暗な山道を照らしていた。

「あと十分で二時だな」

友人が笑いながら言った。

その直後だった。

前方の道路脇に、人影が見えた。

白い服を着た老婆だった。

「……誰かいるぞ」

Aさんが速度を落とす。

老婆は道路の端に立ったまま、こちらをじっと見ていた。

そして――

ゆっくりと右手を上げた。

手招きしている。

「乗せてほしいのかな?」

友人がドアのロックを確認した。

しかしAさんは、アクセルを踏み込んだ。

老婆の横を通り過ぎる。

その瞬間。

後部座席から、

コン……

と音がした。

「今、誰か窓叩いた?」

三人とも黙り込んだ。

もう一度、

コン……コン……

今度は明らかに車の後部座席の窓だった。

Aさんは振り返らなかった。

そのままダム湖沿いの道を走り続ける。

やがて、湖面が見えてきた。

月明かりに照らされた大原湖は、不気味なほど静かだった。

そして友人の一人が、突然叫んだ。

「おい……あれ……」

湖の中央を指差している。

そこに、

人が立っていた。

黒い湖面の上に、白い服の老婆が立っている。

水面に浮かんでいるのではない。

まるで湖底から伸びた何かに支えられているように、まっすぐ立っている。

三人は息をするのも忘れて見つめた。

すると老婆が、

ゆっくり顔を上げた。

遠く離れているはずなのに――

目が合った。

そして老婆は、湖の上からこちらへ向かって、

手招きを始めた。

「……逃げろ!」

Aさんは車を急発進させた。

その瞬間、後部座席から、

ドンッ!

ものすごい衝撃音が響いた。

車を止めることはできなかった。

そのまま山を下り、ようやく明るい場所まで戻った。

三人は何も話さなかった。

だが翌朝。

Aさんが車を確認すると、後部座席の窓に奇妙なものが残っていた。

泥で汚れた、

人間の手形。

しかもその手形は、車の外側ではなかった。

車内側の窓に付いていた。

そして最後に、Aさんが気づいた。

手形の指先には、

湖の底にあるはずの黒い泥が、べったりと付着していたという。

佐波川ダムでは、現在も老婆の霊や湖面に立つ人影などの噂が残っている。

そして地元に伝わるという、こんな言葉がある。

「湖で手招きされても、絶対に手を振り返してはいけない。」

なぜなら――

一度でも手を振り返した人間は、

次に湖を見たとき、自分の隣に“もう一人”立っているからだ。

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