旧根岸競馬場――誰もいない観客席
横浜市にある根岸森林公園。
現在は広い芝生と木々に囲まれた穏やかな公園ですが、ここにはかつて、根岸競馬場という大きな競馬場がありました。
その跡地に今も残っているのが、巨大な旧一等馬見所です。
ある男性が、夕方の公園を一人で歩いていた。
日が沈みかけ、あたりが薄暗くなったころだった。
ふと、男性は古びた建物のほうに目を向けた。
ツタに覆われた壁。
いくつもの窓。
そして、まるで建物そのものがこちらを見下ろしているような、不気味な三つの塔。
男性が立ち止まって見上げていると――
「……カン、カン、カン」
どこからか、乾いた音が聞こえた。
最初は工事か何かだと思った。
しかし周囲には誰もいない。
もう一度、
「カン、カン、カン」
今度は、はっきりと建物の中から聞こえた。
男性が耳を澄ませると、その音に混じって奇妙な声が聞こえてきた。
「……まだ……始まらないのか……」
男性は背筋が凍った。
競馬場は、とっくの昔に閉鎖されている。
それなのに、建物の奥から聞こえてきた声は、まるでレースの開始を待っている観客のようだった。
その瞬間――
「パカッ……パカッ……」
馬の蹄の音が聞こえた。
しかも一頭ではない。
二頭、三頭……。
次第に数が増えていく。
「パカパカパカパカ……!」
音は建物の中からではなかった。
男性の背後。
公園の芝生の向こうから近づいてきていた。
恐る恐る振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
ただ、誰もいない芝生の上を、何かが猛烈な勢いで走り抜けているように草だけが揺れていた。
そして突然、
「ワァァァァ――!」
大勢の歓声が響き渡った。
男性が建物を見上げる。
すると、さっきまで暗かった窓のいくつかに、人影が並んでいる。
一人。
二人。
三人。
数え切れないほどの人影が、こちらを見下ろしていた。
男性は慌ててその場から逃げた。
走っても、背後からは歓声と蹄の音が追いかけてくる。
そして最後に――
「ドンッ!」
何かが背中にぶつかったような衝撃を感じた。
男性は転倒した。
恐る恐る振り返る。
そこには誰もいなかった。
ただ、地面には奇妙なものが落ちていた。
古びた馬券だった。
男性は拾わず、そのまま逃げ帰った。
翌日。
明るい時間にもう一度確認してみたが、馬券はもちろん、何かが走ったような跡も残っていなかった。
ただ一つだけ、不思議なことがあった。
男性が昨夜撮影していた建物の写真。
そこには、現在の誰もいない馬見所ではなく――
無数の観客で埋め尽くされた、かつての競馬場の姿が写っていた。
そして写真の一番手前。
男性のすぐ後ろには、
こちらを見つめる白い顔の男が一人、立っていたという。
現在、旧一等馬見所の周辺は立入禁止となっています。
もちろん、ここで語った怪異は創作です。
しかし、かつて多くの人々が集まり、歓声と馬の蹄音に包まれていた場所だからこそ――
夜の静寂の中で、もしどこからか馬の走る音が聞こえてきたら。
それは、もう終わったはずのレースが、今もどこかで続いているのかもしれません。
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