死入道峠――後ろにいる男

深夜の峠道を走るのは、あまり気持ちのいいものではない。

まして、その峠の名前が「死入道峠」ならなおさらだった。

友人からその名前を聞いたとき、俺は笑っていた。

「そんな名前、本当にあるのかよ」

「あるよ。しかも夜に通ると、変な男を見るって話」

そう言われても、怖いとは思わなかった。

その夜、俺は一人で車を走らせていた。

時刻は午前二時過ぎ。

街灯はほとんどなく、ヘッドライトだけが暗い山道を照らしている。

カーブをいくつか抜けたところで、突然、道路脇に人影が現れた。

白い服を着た男だった。

男は俯いたまま、道路脇に立っている。

俺は慌ててブレーキを踏んだ。

しかし、次の瞬間には男の姿が消えていた。

「……見間違いか?」

そう呟き、車を発進させる。

ところが、バックミラーを見た瞬間、背筋が凍った。

さっきの男が、道路の真ん中に立っていた。

しかも、こちらを向いている。

俺はアクセルを踏み込んだ。

男の横を通り過ぎる。

そして、もう一度ミラーを見る。

――誰もいない。

「なんだったんだ……」

怖さを紛らわせるため、ラジオをつけた。

しかし、流れてきたのは音楽ではなかった。

ザー……というノイズ。

その中に、かすかに人の声が混じっている。

『……うしろ……』

俺はラジオを切った。

すると車内が、急に静かになった。

そのときだった。

後部座席から、

「コン……」

小さな音がした。

まるで誰かが、座席を指で叩いたような音だった。

俺は振り返らなかった。

「コン……コン……」

今度は二回。

そして、

「コン、コン、コン……」

徐々に音が近づいてくる。

俺は必死に前だけを見て走った。

やがて峠を抜け、街灯のある道路に出た。

安心して、ようやくバックミラーを見た。

後部座席には誰もいない。

「……よかった」

そう呟いた瞬間、スマートフォンが鳴った。

画面を見る。

友人からだった。

電話に出ると、開口一番こう言われた。

「お前、今どこにいる?」

「死入道峠を抜けたところだけど」

すると友人は、しばらく黙った。

そして、小さな声で言った。

「……お前、一人で行ったよな?」

「そうだけど」

「じゃあ、なんで後部座席に男が座ってるんだ?」

血の気が引いた。

俺はゆっくりとバックミラーを見た。

そこには――

白い服の男が座っていた。

男は俯いている。

顔は見えない。

ただ、両手だけが見えていた。

そして、その手で後部座席を、

「コン……コン……」

と叩いている。

俺は声にならない叫びを上げた。

その瞬間、男がゆっくり顔を上げた。

ミラー越しに目が合った。

男の口が動く。

そして、確かにこう言った。

「……峠は、まだ終わってない」

次の瞬間、車内の時計が消えた。

ラジオも、カーナビも、スマートフォンも、すべて真っ暗になった。

俺は夢中で車を走らせた。

気がつくと、朝だった。

車は峠の入口に停まっていた。

――そこから一歩も進んでいなかった。

そして、後部座席には泥で濡れた足跡が残っていた。

一つではない。

運転席のすぐ後ろから、

後部座席、

助手席、

そして――

運転席の肩のすぐ横まで。

足跡は、そこで途切れていた。

それ以来、俺は二度と死入道峠を通っていない。

ただ、今でも夜中に車を運転していると、ときどき後部座席から聞こえる。

「コン……」

「コン……」

あの音が。

そして最近、気づいたことがある。

あの音は、いつも少しずつ近づいている。

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