尼ヶ坂――坂の途中で振り返ってはいけない
名古屋の街中に、昔から「夜に一人で歩かないほうがいい」と言われる坂がある。
その名は、尼ヶ坂。
昼間なら、ただの静かな坂道にしか見えない。
しかし、夜になると空気が変わる。
ある夏の深夜、仕事帰りの男が、近道をするため尼ヶ坂を歩いていた。
時計は午前一時を過ぎていた。
街灯の下を歩いていると、後ろから――
「……すみません」
女の声がした。
男は振り返った。
だが、誰もいない。
気のせいだと思い、そのまま歩き始める。
すると、また声がする。
「……すみません」
今度は、さっきより近い。
男が振り返る。
やはり誰もいない。
ただ、坂の下にある街灯が、妙にちらついていた。
男は少し早足になった。
すると――
カツ……
カツ……
カツ……
後ろから、誰かが歩いてくる音が聞こえた。
一定の間隔で、ゆっくり近づいてくる。
男は振り返らなかった。
すると耳元で、
「……どうして振り返らないの?」
女の声がした。
男は思わず立ち止まった。
そして恐る恐る振り返る。
そこには、白い服を着た女が立っていた。
長い髪で顔は見えない。
女はじっと男を見つめていた。
そして、小さな声で言った。
「さっきから……ずっと後ろにいたのに」
男は逃げるように坂を駆け上がった。
一度も振り返らなかった。
ようやく大通りまで出たところで、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
恐る恐る電話に出る。
すると――
『……すみません』
さっきの女の声。
男は慌てて電話を切った。
しかし、すぐにまた着信が入る。
画面を見ると、今度は発信者の名前が表示されていた。
そこには、
「自分の番号」
と表示されていた。
男は震えながらスマートフォンを落とした。
そして、その瞬間。
背後から女の声がした。
「今度は……振り返ってね」
翌朝。
尼ヶ坂の途中には、男のスマートフォンだけが落ちていたという。
画面には、最後に撮影された一枚の写真が残っていた。
坂道を歩く男の後ろ姿。
そのさらに後ろに――
長い髪の女が立っている。
そして写真の端には、もう一人。
男のすぐ後ろから、顔を覗き込むようにしている、
別の女の顔が写っていた。
尼ヶ坂では昔から、
「夜、後ろから声を掛けられても振り返るな」
そんな噂が囁かれている。
もし坂道を歩いていて、
「すみません」
と声を掛けられたら――
その声が、どれだけ近くから聞こえても。
絶対に振り返ってはいけない。
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