仁井田頭首工の「向こう岸」

夜の仁井田頭首工は、昼間とはまるで別の場所に見える。

水門の向こうで、黒い水がゆっくりと流れている。

ある夏の夜、肝試しに訪れた若者がいた。

時刻は午前一時を過ぎていた。

「ここ、思ったより静かだな」

そう言って懐中電灯を向けた瞬間だった。

水門の下から、

――チャプン。

小さな水音が聞こえた。

最初は魚だと思った。

ところが、もう一度。

――チャプン。

今度は、はっきりと人の足音のような水音だった。

若者が水面を照らす。

何もいない。

しかし、懐中電灯を消した瞬間、

「……こっち」

耳元で、女の声がした。

驚いて振り返る。

誰もいない。

友人のいたずらだと思い、笑いながら先へ進んだ。

そのとき、向こう岸に人影が立っているのが見えた。

白い服を着た女だった。

こちらを向いて、じっと立っている。

「誰かいるぞ」

若者が声をかける。

女は答えない。

ただ、ゆっくりと腕を上げた。

そして、水門の下を指差した。

若者がそちらを見る。

すると――

水面に、もう一人の女が映っていた。

だが、向こう岸に立っている女とは違う。

水の中にいる女は、こちらを見上げて笑っていた。

若者は恐ろしくなり、その場から逃げ出した。

翌朝。

昨夜撮影した動画を確認すると、不思議なことに気づいた。

向こう岸には、最初から誰も映っていなかった。

それなのに、動画の最後だけ、

水門の前に白い服の女が立っている。

そして画面の奥から、かすかな声が聞こえた。

「……ひとり、足りない」

その瞬間、若者のスマートフォンに着信が入った。

発信者は――

昨夜、一緒に来たはずの友人だった。

しかし、その友人は電話に出ない。

代わりに聞こえてきたのは、

――チャプン。

水の中を誰かが歩く音だった。

それ以来、夜の仁井田頭首工では、

「水門の向こう岸に立つ女を見た」

という話が囁かれるようになった。

そして、女を見つけた人は決まってこう言われる。

「絶対に、水面を覗き込んではいけない」

なぜなら水面には、

自分の姿ではなく――

水の中からこちらを見上げている“もう一人の自分”が映るからだ。

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