秋田・空素沼――「帰らずの沼」に立つ女

 秋田市の寺内高野。

住宅地のすぐ近くに、ひっそりと水をたたえる沼がある。

その名は――空素沼(からすぬま)。

この沼には、昔から奇妙な伝説が残されている。

一夜にして大きな沼が現れたという話。

沼の主である龍神が、この土地を借りたという話。

そして、沼に近づいた人間が帰ってこなくなったことから、いつしか「帰らずの沼」と呼ばれたという話。

真偽は分からない。

ただ、地元では昔から、

「夜の空素沼には近づくな」

そう言われてきたという。

ある冬の夜。

一人の若い女性が、空素沼を訪れた。

彼女は深く悩みを抱えていた。

車を降りると、あたりには誰もいない。

街の明かりも遠く、沼の水面だけが、月明かりを受けてぼんやりと浮かんでいた。

女性はゆっくりと沼のほとりまで歩いた。

そして、水面を見つめた。

「……もう、疲れた」

そのときだった。

背後から、

「どうしたの?」

と、女の声がした。

女性は驚いて振り返った。

そこには、一人の女が立っていた。

年齢は自分と同じくらい。

白い服を着ている。

しかし、こんな夜中に、なぜこんな場所にいるのか。

女性は尋ねた。

「あなたこそ、こんなところで何をしているんですか?」

女は答えなかった。

ただ、沼を見つめていた。

そして突然――

「あなたは、帰ったほうがいい」

そう言った。

女性は首を振った。

「帰る場所なんてありません」

すると女は、悲しそうに笑った。

「……そう」

次の瞬間だった。

女は沼へ向かって歩き出した。

「ちょっと!」

女性が叫ぶ。

しかし女は止まらない。

水際まで行くと、そのまま暗い水の中へ入っていった。

一歩。

また一歩。

そして――

水の中へ消えた。

「待って!」

女性は慌てて駆け寄った。

しかし、水面には誰もいない。

ただ、円形の波紋だけが広がっていた。

その瞬間。

女性の胸を覆っていた、あの重苦しい感覚が突然消えた。

なぜか分からない。

ただ、

「……帰らなきゃ」

そんな気持ちだけが、強く湧いてきた。

女性はその場から逃げるように立ち去った。

翌朝。

彼女はもう一度、空素沼を訪れた。

昨夜のことが夢だったのか確かめたかったのだ。

沼は静かだった。

何事もなかったかのように、水面が揺れている。

女性は水際に立った。

すると――

水面に、自分の姿が映った。

そして、そのすぐ後ろ。

誰かが立っている。

長い髪の女だった。

女性はゆっくり振り返った。

――誰もいない。

もう一度、水面を見る。

そこには自分一人しか映っていなかった。

だが、そのとき。

水面の奥から、

「帰って……」

という声が聞こえた。

女性はその場を離れた。

それ以来、二度と空素沼へ行かなかったという。

ただ、数年後。

彼女が友人にこの話をしたとき、不思議なことを言った。

「私を助けてくれた女の顔を、今でも思い出せないの」

友人が尋ねた。

「顔を見なかったの?」

女性は首を振った。

「見たはずなの。でも……思い出そうとすると、顔だけが水の中みたいにぼやけるの」

そして、最後にこう続けた。

「でもね。一つだけ覚えてる」

「何を?」

女性は小さな声で答えた。

「その人の服……全部、濡れてた」

その瞬間、部屋の空気が変わった。

友人は黙って彼女を見つめた。

なぜなら――

その女性が空素沼を訪れた夜。

雨は降っていなかったからだ。

そして、彼女を助けたという女が沼へ消えたとき。

水面には、一滴の水音すらしなかったという。

空素沼。

今も静かな水面をたたえるその沼には、さまざまな伝説が残されている。

そして夜。

誰もいないはずの水辺で、

「帰って……」

という女の声を聞いたとしても――

決して、水面を覗き込んではいけない。

なぜなら、そこに映るのは、

あなた自身とは限らないからだ。

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