『鈴ヶ森の呼び声』
夜の十一時を過ぎたころだった。
仕事帰りの男は、第一京浜を歩いていた。
車の音が途切れることはない。
明るい街灯もある。
それなのに――。
大経寺の前を通り過ぎた瞬間、男は妙な寒気を感じた。
「……なんだ?」
振り返る。
そこには、静まり返った境内と、鈴ヶ森刑場跡の石囲いが見えるだけだった。
男は苦笑して、再び歩き出した。
そのとき。
――チリン。
小さな鈴の音がした。
「……?」
空耳だと思った。
しかし、数秒後。
――チリン……。
今度ははっきり聞こえた。
音は、背後からだった。
男が振り返る。
誰もいない。
ところが、刑場跡の暗がりにある石の前に、何かが立っていた。
人影。
黒い着物のように見える。
男は目を細めた。
すると、その人影がゆっくり顔を上げた。
顔が見えない。
ただ、首元だけが妙に白かった。
「……誰だ?」
声をかけた瞬間――。
人影が消えた。
男は急いでその場を離れた。
そして十数メートルほど歩いたところで、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
恐る恐る出る。
『……もしもし』
何も聞こえない。
ただ、向こう側から――
――チリン。
鈴の音がした。
男は慌てて電話を切った。
すると今度は、背後から声がした。
「……まだ、帰るのか」
男の体が凍りついた。
振り返れない。
その声は、すぐ耳元にあった。
「ここで……待っている人がいる」
男は走った。
何度も後ろから鈴の音が聞こえた。
――チリン。
――チリン。
――チリン。
やがて自宅に着き、玄関を閉めた。
荒い息を整えながら、男はスマートフォンを確認した。
着信履歴に、さっきの番号が残っている。
しかし、その番号を見た瞬間――男は凍りついた。
番号の下に、名前が表示されていた。
「鈴ヶ森刑場」
そんな名前を、男は登録していない。
もちろん、そんな電話番号が存在するはずもない。
男は震える手で着信履歴を消した。
その夜。
午前二時十三分。
男は布団の中で目を覚ました。
部屋は真っ暗だった。
そして――。
枕元から音がした。
――チリン。
男は息を止めた。
――チリン。
今度は、すぐ目の前。
暗闇の中に、人が立っていた。
黒い着物。
白い顔。
そして、その首元には小さな鈴。
男は声を出せなかった。
その人物は、ゆっくり近づいてくる。
そして耳元で囁いた。
「……ひとり、足りない」
――チリン。
翌朝。
男の部屋には誰もいなかった。
玄関も窓も、内側から鍵がかかっていた。
ただ、枕元に一つだけ置かれていた。
古びた、小さな鈴。
それ以来。
男は二度と鈴ヶ森の前を通らなくなった。
だが――。
今でも夜になると、自宅のどこからか聞こえるという。
――チリン。
――チリン。
まるで、誰かが遠い昔の刑場から、
「次は、お前の番だ」
と呼んでいるかのように。
コメント
コメントを投稿