荒川彩湖公園――土手の向こうから聞こえる声

夜の荒川彩湖公園は、昼間とはまるで別の場所だった。

昼間なら、子どもたちの声や自転車の音が聞こえる。
彩湖の水面には街の明かりがぼんやり映り、土手にはランニングをする人もいる。

だが、午前0時を過ぎると、あたりから人の気配が消える。

その夜、私は一人で公園を歩いていた。

特に理由はなかった。

ただ、夜の公園を歩くのが好きだった。

駐車場を抜け、土手へ向かって歩いていると、背後から、

「……すみません」

と声がした。

私は振り返った。

誰もいない。

「気のせいか」

そう呟いて、再び歩き始めた。

すると今度は、はっきり聞こえた。

「待ってください」

男の声だった。

しかも、さっきより近い。

私は立ち止まった。

後ろには誰もいない。

左右を見ても、人影はない。

風の音だけが、草むらをざわざわと揺らしていた。

怖くなった私は、足早に土手を上った。

そして、彩湖の方を見た。

暗い水面の向こうに、ひとりの男が立っていた。

黒っぽい服を着ている。

こちらに背を向けているようだった。

「誰かいる……」

そう思った瞬間。

男がゆっくり振り返った。

顔は、暗くてよく見えなかった。

ただ、こちらを見ていることだけは分かった。

私はその場を離れようとした。

その瞬間、男が言った。

「……そっちは違う」

意味が分からなかった。

「え?」

思わず聞き返した。

すると男は、今度は少し大きな声で言った。

「そっちは……帰れない」

背筋が凍った。

私は走った。

土手を下り、来た道を戻る。

後ろを振り返ることはできなかった。

だが、確かに聞こえていた。

ザッ。

ザッ。

草を踏む音。

誰かが後ろから歩いてくる。

私はさらに速度を上げた。

すると突然、

「待って!」

耳元で男の声がした。

私は悲鳴を上げて振り返った。

誰もいない。

それでも足音だけは続いていた。

ザッ。

ザッ。

ザッ。

そして駐車場まで戻ったところで、ようやく足音が止まった。

車に乗り込み、震える手でエンジンをかける。

バックミラーを見た。

誰もいない。

私はそのまま公園を出た。

翌朝。

昨夜のことが気になって、スマートフォンで荒川彩湖公園について調べた。

すると、ネット上には奇妙な噂がいくつも出てきた。

「夜に男性の声を聞いた」

「後ろから男性が歩いてくる気配がした」

「誰もいない場所から声が聞こえた」

私は画面を見つめた。

そして、ある書き込みを見つけた。

そこには、こう書かれていた。

――声が聞こえても、絶対に振り返ってはいけない。

私は思わず息を止めた。

昨夜、自分は振り返っている。

その瞬間、スマートフォンが鳴った。

知らない番号だった。

恐る恐る電話に出る。

すると、

「……昨日、帰れたんですね」

男の声がした。

私は何も言えなかった。

電話の向こうから、かすかな風の音が聞こえる。

そして最後に、男が小さく呟いた。

「でも……まだ一人じゃないですよ」

電話が切れた。

その直後。

部屋の背後から、

ザッ。

という音がした。

草を踏むような音だった。

私は振り返れなかった。

なぜなら――

荒川彩湖公園から帰ってきたはずの私の部屋には、

草なんて一本もないからだ。

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