八甲田山――雪の中で手招きするもの

「……誰か、そこにいるのか?」

雪原に、一人の兵士の声が響いた。

しかし、返事はない。

あるのは、猛烈な吹雪の音だけだった。

明治時代、八甲田山では陸軍の雪中行軍隊が、想像を絶する吹雪に襲われた。

視界は数メートル先も見えない。

寒さで手足の感覚は失われ、仲間の姿さえ見失っていく。

それでも兵士たちは、必死に山中を進んでいた。

「隊長! あそこに人がいます!」

一人の兵士が叫んだ。

吹雪の向こう。

白い霧のような雪の中に、確かに人影が立っていた。

しかも、その人影は手を上げている。

まるで、

「こっちへ来い」

と手招きしているようだった。

隊長は目を凝らした。

だが、次の瞬間――

「待て!」

隊長が叫んだ。

人影の足元がおかしい。

雪の上に、足跡がない。

そして、人影はゆっくりとこちらへ近づいてくるのではなく、

吹雪の中を滑るようにして移動していた。

「人間じゃない……」

誰かが呟いた。

その瞬間、吹雪が一段と激しくなった。

人影は消えた。

兵士たちは恐怖に震えながら、黙って歩き続けた。

しばらくすると、後方から声が聞こえた。

「おーい……」

仲間の声だった。

「待ってくれ……」

兵士の一人が振り返ろうとした。

しかし、隣にいた兵士が腕を掴んだ。

「振り返るな!」

「でも、今の声は……」

「俺たちの後ろには、誰もいない」

全員が凍りついた。

確かに、後ろには誰もいない。

それなのに、声だけがする。

「おーい……」

今度は、すぐ耳元から聞こえた。

兵士たちは走り出した。

しかし雪に足を取られ、次々と倒れていく。

その夜。

生き残った兵士の一人が、雪の中で奇妙なものを見たという。

白い雪原の向こうに、大勢の兵士が立っていた。

全員、こちらを向いている。

そして、一斉に手を上げた。

「こっちへ来い」

そう言っているようだった。

兵士は必死に目を閉じた。

やがて吹雪が収まり、恐る恐る目を開ける。

そこには誰もいなかった。

ただ、雪の上には無数の足跡が残されていた。

――自分の周囲を、ぐるりと囲むように。

それから年月が過ぎた。

八甲田山では、今でも「吹雪の中で人影を見た」「誰もいない場所から兵隊の声が聞こえた」という怪談が語られている。

そして登山者の間では、こんな言葉も囁かれる。

「八甲田で、雪の中から誰かに手招きされても、絶対について行ってはいけない」

なぜなら――

その先には、

帰ってこられない場所があるからだ。

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