盛岡城跡――夜の石垣から聞こえる声

夏の終わり、午後十一時を過ぎたころ。

私は一人で、盛岡城跡を訪れていた。

昼間なら観光客の姿も見える場所だが、夜になると雰囲気は一変する。

街の明かりは見えている。

それなのに、城跡の中へ少し入っただけで、周囲から音が消えていく。

聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけだった。

私は石垣を眺めながら、ゆっくり歩いていた。

そのときだった。

「……おい」

背後から、男の声がした。

振り返る。

誰もいない。

「気のせいか……」

そう呟いて、再び歩き始める。

すると今度は、さっきより近い場所から声が聞こえた。

「……帰れ」

私は思わず足を止めた。

声がしたのは、古い石垣の向こう側だった。

恐る恐る近づいてみる。

石垣の隙間を覗いても、当然、人の姿はない。

スマートフォンのライトを向ける。

すると――

石垣の一番下に、妙なものが見えた。

黒ずんだ石の表面に、まるで誰かの手で引っかいたような跡が何本も残っていた。

私は写真を撮ろうとスマートフォンを構えた。

その瞬間。

「……見るな」

耳元で、はっきり声がした。

全身の毛が逆立った。

慌てて振り返る。

そこには誰もいない。

だが、スマートフォンの画面には、奇妙なものが映っていた。

私の背後。

石垣の前に――

鎧を着たような男が立っている。

顔は見えない。

ただ、こちらをじっと見下ろしている。

私は反射的に走り出した。

何度も後ろを振り返った。

男は追ってこない。

それでも、背後から足音だけが聞こえてくる。

「ザッ……ザッ……」

まるで重い何かを引きずるような音。

私は城跡を出ようと必死に走った。

ところが、いくら走っても見覚えのある場所に戻ってきてしまう。

そして、また同じ石垣が目の前に現れた。

「なんで……」

そのとき。

石垣の向こうから、低い声が響いた。

「ここから先へ行くな」

私は動けなくなった。

すると突然、背後から冷たい風が吹き抜けた。

耳元で、複数の人間が囁く声がした。

「まだ……帰れない」

「まだ……終わっていない」

「誰か……来てくれ」

私は叫びながら走った。

今度は夢中だった。

気がつくと、城跡の外にある道路まで出ていた。

街灯の下で息を整え、恐る恐るスマートフォンを確認する。

撮影したはずの写真は、ほとんど真っ黒になっていた。

ただ一枚だけ、画像が残っていた。

そこには夜の石垣が写っている。

そして、その石垣の前に――

鎧姿の男が立っていた。

私はその写真をすぐに消した。

しかし、その翌朝。

スマートフォンを確認すると、削除したはずの写真が一枚だけ残っていた。

しかも、昨日とは違っていた。

写真の中の男が、こちらを向いている。

そして画像の端には、昨夜はなかった文字のようなものが写り込んでいた。

私は拡大して確認した。

そこにあったのは――

「次は、お前が呼ばれる」

という文字だった。

それ以来、私は夜の盛岡城跡には近づいていない。

ただ、今でも不思議に思うことがある。

あの夜、私が聞いた「帰れ」という声。

あれは本当に、私を追い払おうとしていたのだろうか。

それとも――

もっと恐ろしい何かが、私に近づくのを防いでくれていたのだろうか。

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