野田山墓地――「帰して」
夜の野田山墓地には、昼間とはまったく違う空気が流れている。
山の斜面に沿って無数の墓が並び、木々の隙間から見える金沢の夜景だけが、遠くで静かに瞬いていた。
ある夏の夜。
肝試しに訪れた数人の若者が、墓地の中腹にある駐車スペースへ車を停めた。
「……なんか、思ったより静かだな」
誰かがそう呟いた。
エンジンを切ると、車内は急に静まり返った。
聞こえるのは、木の葉が風に揺れる音だけ。
ところが、そのときだった。
――コン、コン。
車の後部から、小さな音がした。
「誰かいる?」
一人が外へ出て確認した。
しかし、そこには誰もいない。
「木の枝でも当たったんじゃない?」
そう言って車へ戻ろうとしたとき、別の一人が墓地の奥を指差した。
「あれ……人じゃない?」
暗い墓石の間。
白い服を着た女性が立っていた。
こちらを向いているようにも見える。
しかし、顔は暗くて確認できない。
「おーい!」
声をかけても返事はない。
その女性は、ゆっくりと墓石の陰へ消えていった。
「……今、見た?」
全員が黙り込んだ。
さすがに怖くなり、車へ戻る。
ところが――
エンジンがかからない。
キーを回す。
セルモーターは回る。
それなのに、エンジンだけが一向に始動しない。
「嘘だろ……」
何度試しても同じだった。
そのとき。
後部座席にいた一人が、突然、小さな声を漏らした。
「……誰か、いる」
全員が振り返った。
当然、誰もいない。
「何が?」
「今……窓の外から女の人が覗いてた」
車内の空気が凍りついた。
全員が窓を見る。
何もない。
しかし、その直後――
助手席の窓が、
――コン。
と叩かれた。
全員が息を止める。
――コン。
もう一度。
今度ははっきり聞こえた。
「……開けないほうがいい」
誰かが呟いた。
すると、車の外から女の声が聞こえた。
「……帰して」
「え?」
「……帰して……」
声は小さい。
けれど、確かに女性の声だった。
そして、その声は次第に近づいてきた。
「帰して……」
「帰して……」
「帰して……」
車の周囲から、同じ言葉が何度も聞こえる。
一人が震える手で、もう一度キーを回した。
すると――
突然、エンジンがかかった。
「行け!」
車は勢いよく墓地を下っていった。
誰も後ろを見なかった。
山を下り、明るい道路へ出たところで、ようやく全員が息を吐いた。
そのとき、後部座席の一人が言った。
「……ねえ」
「何?」
「さっきから、人数……一人多くない?」
車内が静まり返った。
恐る恐る全員が数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
――そして、六人。
「……誰?」
誰も答えられなかった。
最後尾の席には、白い着物を着た女性が座っていた。
俯いたまま、顔を上げようとしない。
そして、消え入りそうな声で呟いた。
「……まだ、帰れない」
翌朝。
車を確認すると、後部座席には誰もいなかった。
ただ、座席には濡れた土が残っていた。
そして、その土の上には――
墓地から持ってきたはずのない、
古い一輪の花が置かれていたという。
野田山には、今も数多くの墓が残されている。
長い歴史を持つこの場所では、さまざまな怪談や心霊の噂が語られてきた。
だが、もし夜の墓地で誰かに、
「帰して」
と声をかけられても――
決して振り返ってはいけない。
その声の主が、
「帰りたい人」なのか。
それとも、
「一緒に帰ろうとしている人」なのか。
確かめる方法は、ないのだから。
コメント
コメントを投稿