与兵衛沼――夜の水面から聞こえる声
宮城県仙台市にある、与兵衛沼。
昼間は穏やかな水面が広がり、周囲には木々が生い茂っている。
しかし、夜になると雰囲気が一変する。
地元では昔から、
「夜の沼には近づくな」
そんな噂が囁かれていた。
ある夏の夜、大学生の健太は、友人二人と与兵衛沼へ向かった。
時間は午前0時を過ぎていた。
「本当に何か出るのかな」
友人が笑いながら懐中電灯を沼へ向ける。
照らされた水面は、風もないのに小さく揺れていた。
「……誰かいる?」
健太が呟いた。
沼の対岸。
木々の隙間に、人影のようなものが立っていた。
白っぽい服を着た、長い髪の人物。
三人は黙り込んだ。
「人じゃない?」
そう言って近づこうとした瞬間――
水面から、
「……こっち……」
という声が聞こえた。
三人とも動けなくなった。
声は、沼の中央から聞こえていた。
「聞こえた?」
友人が震える声で尋ねる。
健太は黙って頷いた。
すると、今度はもっと近くから、
「……こっちに来て……」
声がした。
だが、沼の周囲には誰もいない。
健太は怖くなり、帰ろうとした。
そのときだった。
懐中電灯が突然消えた。
完全な暗闇。
そして――
「……三人じゃないよ」
女の声が、すぐ耳元で聞こえた。
健太が振り返る。
誰もいない。
しかし、友人二人の顔から血の気が引いていた。
「……健太」
「何?」
「後ろ……」
健太がゆっくり振り返る。
そこには、沼の水面に浮かぶ三つの顔があった。
一つ。
二つ。
そして――
三つ目。
その顔は、健太自身だった。
「逃げろ!」
三人は夢中で走った。
振り返ることはできなかった。
ただ、背後から水を踏むような音が、ずっと追いかけてきた。
――ぺた。
――ぺた。
――ぺた。
車まで戻った三人は、無我夢中でドアを開けた。
しかし、健太が後部座席に乗り込んだ瞬間、友人が叫んだ。
「待って!」
「何だよ!」
「……一人、多くない?」
車内には四人いた。
運転席に友人。
助手席にもう一人。
後部座席に健太。
そして――
健太の隣。
濡れた髪の女が、静かに座っていた。
女は顔を上げると、健太を見つめた。
そして、口元だけで笑った。
「……やっと帰れるね」
翌朝。
三人は警察に保護された。
だが、不思議なことに、車内には四人分の泥の跡が残っていたという。
しかも、その泥の跡は後部座席から始まり――
沼の方向へ続いていた。
それ以来、健太は与兵衛沼について一切語らなくなった。
ただ、一つだけ。
友人にこう言ったという。
「夜の沼を見ちゃいけない」
「水面に、自分以外の顔が映っていたら……絶対に声をかけるな」
なぜなら――
返事をした瞬間、
沼の中にいる“もう一人の自分”が、こちらの世界へ戻ってくるからだ。
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